命からがら浜松の城下を鷲に乗って逃げ出したのはいいものの、夜に入るにしたがって空の寒さは骨身に染み、腹は減るし、寝る場所のあてはなし。青息吐息の盲目飛行、下手をすれば先生、雲のなかで迷子になってしまいそうです。
やはり、名刀・村正の切れ味も持つ人の腕次第、千里を走る名馬も乗り手次第というわけです。――そもそも、蛾次郎の腕前や頭の回転では手に余るほどの大鷲を、果たして彼がどこまで自由自在に操れるのか。ここからが、実におもしろい見ものとなります。
九|輪をめぐる怪傑怪人
一
法師野(ほうしの)の空には、平和の星が静かに輝いています。
今夜ばかりは、村の人々も、ようやく心安らぐ楽しい夢路についていることでしょう。
お年寄りはご陣屋のほうへ背を向けて、安らかに眠っているはずです。
赤ん坊は母親の乳房にすがりつき、スヤスヤと寝息を立てているでしょう。
――そして、施無畏寺(せむいじ)の庭に陣を敷いた千人の兵士たちも、鞍や武具を枕にして束の間の眠りにつき、馬もいななかず、篝火(かがりび)も消え、陣の幕にはしっとりとした夜が更けていきます。
すると、多宝塔のまわりを、ぴた……ぴた……と、静かに歩いてくる人影がありました。
また、廻廊(かいろう)の陰からも、二人の武士が足音を忍ばせて階段を降りてきました。
「おお、山県殿に小文治殿か……」
「これは忍剣殿、お互いに今宵の寝ずの番、ご苦労である」
「どこにも異状はありませんかな」
「格別、何事もありません」
「では、後刻に……」
二人は黙礼して、左右に分かれていきました。
カーン、カーン、――水面に響くような寂しい音。
時刻を告げる番人が、丑の刻(午前二時から三時)を知らせています。
本陣、大将の寝所である幕のあたりでも、夜詰めの侍が持つ槍の穂先が、ときおりピカリ、ピカリと月光を反射して動いていました。
そのころ――、まさにそのころのこと。
多宝塔の三階にある暗室へ、昨夜から放り込まれていた和田呂宋兵衛(わだろそべえ)は、らんらんと鋭い眼光を研ぎ澄まし、手首をつなぐ鉄の鎖を、ときおりガチャリ、ガチャリと鳴らしていました。
「うーむ、いまいましい」
音を立てないように気をつけてはいますが、しきりに身をよじり、ありったけの力を込めて鎖を引きちぎろうとしています。
しかし、そんな努力も結局は無駄なこと。
誰かに腕でも斬ってもらわない限り、鎖が切れるはずもなく、塔の太い柱が砕けるはずもありません。
「ああ、残念だ……ううむ、くっ……」
もがきにもがくうちに、呂宋兵衛は唇を噛み切り、タラタラと血を流しました。
そのとき、バサッと天井を打つまっ黒な影がありました。
見ると、楼閣の欄間(らんま)から飛び込んできた一尺ほどの蝙蝠(こうもり)です。秋の暑さも過ぎたこのごろなので、翼に力もなく、厨子(ずし)の板壁をズルズルと滑り落ちてきました。
「おっ! しめた」
呂宋兵衛は、じりじりと身をにじらせました。
蝙蝠を見てとっさに思い浮かんだのは、獣遁(じゅうとん)の一法、南蛮流の妖術でいう「化獣縮身(けじゅうしゅくしん)の術」です。
しかし、それを行うには、少しでもいいから蝙蝠の体に触れなければ術は使えません。
いや、蝙蝠に限ったことではなく、どんな動物でも霊気の感応が必要なので、ネズミでも猫でもいいのですが、今この塔の中にいるのは蝙蝠だけなのです。どうしてもあれに指先でも触れたいのです。
しかし、なかなか蝙蝠のほうが近づいてくれません。
たまに頭の上へ這(は)ってきたなと思い、体を寄せると、柱に縛り付けられた鎖がガチャッと鳴るため、蝙蝠は驚いて天井へ跳ね上がります。――とはいえ、六角形の密室なので外へは出られず、またバサバサと板壁を滑り降りてきます。
「今度近くに来たら逃がすまい」
呂宋兵衛は息を殺しました。
懸命になると人は恐ろしいものです。彼の額には、まるで魚の油を塗ったかのような脂汗が浮かんでいました。
けれど、蝙蝠の鋭い感覚のせいで、七度八度と同じことを繰り返しても、呂宋兵衛の努力は空振りに終わりました。
早くも里では一番鶏が鳴き、彼は気が気ではありません。
そこで、呂宋兵衛は考えを改めました。
彼は坐禅を組むように座りました。
そして最後にもう一度、蝙蝠が壁を滑り降りてくるのを待ち構え、今度は口の中で呪文を唱えて、スッと一本の細い絹糸のような線を吐き出しました。
と思うと――一匹の小さな金蜘蛛(きんぐも)が、呂宋兵衛の口からススススと、その細い糸を伝って這い出てきました。
これはかつて、人穴城で竹童と初対面した際、問答の最中に見せたことのある、呂宋兵衛得意の口術です。
今、吐き出して糸を渡らせた金蜘蛛は、壁に張り付いている大蝙蝠のそばへ這い寄りました。それを見ると蝙蝠は、バサリと一滑りして、いきなり蜘蛛を食いにかかりました。
すると、蜘蛛はスッと二尺ばかり糸を巻き戻して止まります。
蝙蝠はまたソロリと寄って餌を狙います――その微妙な間合いを計り、呂宋兵衛は吸い込む息と共に、スッと蜘蛛を口の中へ引き入れました。
餌を失った蝙蝠は、それを追ってパッと呂宋兵衛の顔へぶつかってきました。
「えいっ!」
その瞬間、彼の全身から恐ろしい気合が放たれました。
そして、忽然と床に鳴り響いた鎖の上へ、大蝙蝠の黒い妖影が、クルクルと舞い落ちました。
二
「やっ!」
愕然として、多宝塔の下で立ちすくんだのは、寝ずの番をしていた加賀見忍剣(かがみにんけん)です。
左手に鉄杖をつき、右手を眉にかざして、明け方の暗い空をじっと見つめていましたが、やがて、
「おお! 山県、巽(たつみ)!」
と同僚の名を呼び立てました。「なんのことだ」
「異変かッ」
バラバラと、すぐそこへ駆けつけてきた小文治と蔦之助に対し、忍剣は、
「しッ」
と手で制して、
「愚僧の気のせいかもしれないが、あの塔の三階にあたる欄干に、何者か立っていないだろうか」
「どれ……」
少し身を横にかがませて、明け方の闇を透かした二人は、なるほど、よくよく目を凝らして見ると、忍剣の言うとおり楼閣の三階に、うす黒い影が立っているような気がした。
「しかし、あそこに人がいるはずはない。ことによったら棟木の瓔珞(ようらく)ではないか」
「いや、瓔珞がそんなに大きく見えるはずはない」
「といって、厳重にいましめておいた呂宋兵衛(ろそべえ)ではなおさらあるまい。……ウーム、おや……、影が動いた!」
「なに、影が動いた? オオ、いよいよ怪しい」
「ちぇッ、やっぱり呂宋兵衛だ。どうして自由になりおったか。あれあれ、棟木の瓔珞に身を伸ばして、塔の屋根によじ登ろうとしておるのだ」
「一大事! それ、逃がすなッ」
「オオ」
三人は疾風のごとく階段を駆け上がり、扉を蹴り開いて塔の中へ躍り込んだが、南無三、二階や三階へ上がる梯子は、呂宋兵衛を頂上に放り込んだ時、万が一を考えてすべて取り外し、施無畏寺(せむいじ)へ運んでしまっていた。
うっかりそれを忘れて飛び込んだ三人は、地団駄を踏んで、
「しまった!」
と、再び外へ駆け出してきた。
「なんじゃ、何が起きたのだ」
そこへ、木隠龍太郎(こがくれりゅうたろう)がやってくる。
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