クロハワタシヲコイシガッテイマス。ワタシモクロガコイシクテナリマセン。民部サマカラ若君ヘ申シアゲテクダサイマシ。ワガママナコトデス』
置手紙には、竹童の文字でこう書いてあった。
「彼のことだ。それなら案じることはない」
むしろ一党の人はそれで愁眉(しゅうび)をひらいていた。しかし、愁眉のひらかれぬ気がかりは、ご神罰に刑せられている忍剣(にんけん)の身の上――。
轟々と空に風の鳴る夜、シトシトと肌寒い小雨が杉山に降りてくる朝、誰もがきっと彼の身を考えた。「ああ、どうしているだろう、忍剣は」――と。
だが、いくらどう案じたところで、ここ二十一日間はその様子を見ることもできない。また、彼を救う方法も絶対にない。忍剣はいま、神刑に処せられているのだ。
二十一日間のおそろしい神刑。そこは御岳の神殿からまだ二里半もある深山の絶頂に近いところ。山は冠ヶ岳(かんむりがたけ)と呼ぶ。急峻で大樹と岩層が天工の奇をきわめているから、岳中自然と瀑布や渓流が多い。あるところは右にも滝、左にも滝。そして渓流の瀞(とろ)に朽ちて横たわっている腐木の上を、貂(てん)やむささびやリスなどが山葡萄を争っているのを昼でも見る。御岳の神領であるから、斧を入れる杣(そま)もなかった。そこには、「ご神刑の千年山毛欅(ぶな)」と呼ばれる大木がありました。
恐ろしく太いブナの木です。
何人が腕を回しても届かないほどの老木でした。
まるで青いラシャの服でも着ているかのように、一面に分厚い苔がびっしりと生えています。
どこまで高いのかと仰ぎ見れば、四方の樹林を突き抜けて、奇怪な枝を広げていました。
白い霧が立ち込める時などは、その木の半分以上が、まさに雲の上に突き出ているほどです。
「血を見るなかれ」という誓文を破った罪により、加賀見忍剣はその神刑のブナの木の上高くに縛り付けられていました。
足はわずかに木のこぶに支えられ、体は注連縄(しめなわ)でぐるぐる巻きにされたまま、礫(つぶて)のように木の幹へ縛り付けられています。
目はもちろん、白い布で隠されていました。かえって、見えないほうがよかったのかもしれません。
十数丈(約30〜40メートル)の樹上から目を開けば、甲斐、秩父、上毛の平野、さらには関八州まで見渡せるでしょう。雲の上から見下ろすような景色に、目がくらんでしまうかもしれません。
しかし、忍剣です。
快川和尚の三十棒で鍛え上げられた彼のことです。
もし目を開けば、「絶景かな!」と叫ぶことでしょう。
それくらいの胆力はありますし、間違いなく、それくらい肝は据わっているはずです。
しかし、いくら大胆な忍剣でも、この深い山の霧にさらされ、二十一日間も飲まず食わずで、そのまま耐え抜くことができるでしょうか。
心は禅の境地に入って耐えることができたとしても、人間の肉体がもつでしょうか。
大雨が降る日もあります。
暴風が幹を激しく揺さぶる夜もあります。
雷鳴や雷光が山を裂くような場合もあるに違いありません。
何より寒いのです。麓のもみじはまだ色づき始めですが、このあたりは身に染みるほどの冷気です。
また、そのブナの木が枝を広げている下を覗き込めば、足がすくむような断崖絶壁です。
幅は狭いものの、「嵐弦の滝」と呼ばれる百尺(約30メートル)ほどの水が、ドッと音を立てて落下しています。
もし、二十一日の間に激しい風雨に見舞われ、ブナの枝が折れたらどうなるでしょう。
彼の体を支えている縄が擦り切れてしまったらどうなるでしょう。
そう、あらゆる状況が、忍剣の命を髪の毛一筋で吊り下げているようなものなのです。
それが神刑というものでした。
万が一、二十一日目に神官が様子を見に来て、かろうじて息でも通っていれば、神への謝罪がかなったものとして罪を許され、手当を受けられるといいます。しかし、ここ四、五十年のあいだに、ご神木のブナに吊るされた者で、助かった者は一人もいないということでした。
――すると、三日、四日、五日と過ぎて、ちょうど八日目のこと。
千年ブナの枝から枝へと、ひらり、ひらり、ひらりと身軽によじ登ってくるものがありました。
見る間に、十数丈の高い樹上まで登りきりました。
そして、忍剣のそばの枝に取り付いたのです。
おかしなことに、何やら忍剣の耳に話しかけているように見えます。
しかし、それは一匹の猿なのでした。
猿が話しかけてくるというのは、少し変なことです。
忍剣には、あの三太郎猿といった知り合いもいないはずでした。
八
目隠しをされているので、忍剣はそばに来た者を見ることはできません。
それをからかいに来た山猿か? 山猿のいたずらか? いや、そうでもないようです。やはり、猿が忍剣にささやきかけてくるのでした。
「忍剣さま、さぞかしお腹がおすきでしょう。
早く来ようと思いましたが、この山には道がありません。
一つの小道には神官の見張り小屋が建っていますので、それで遅くなりました。
なにしろ二十一日間、ものを食べなければ夜の寒気や雨の日に耐えきれません。
さあ、これを食べてください。よく噛んで飲み込んでくださいね。あとで水を持ってまいりますから」
忍剣の口へ、不思議な味のするものが入れられました。木の実でもなく、穀物でもなく、お菓子でもなく、餅でもありません。
しかし、その味の良さは、なんとも言いようがないほどでした。
忍剣は、これまで一度もこれほど美味しいものを食べたことがありませんでした。
「お前は誰だ」
「そのうちにわかります」
「だが……」
「不安に思うことはありませんから」
「今のはなんだ」
「なんということもありません。
この山に生えている葡萄、苔桃(こけもも)、若老、しゃくなげの芽、それに栗だの柿だの、仙人草の根だの、いろんなものを少しの焼き米と搗き混ぜたものでございます。
一日にこれ一つ食べれば、体も温まり、決して飢えるようなことはありません」
「危険を冒して、どうしてお前はそんなものを私に運んでくれるのか」
こう尋ねた時には、もう猿は下へ降りてしまっていました。
忍剣には、それが見えません。
翌日、小雨が降りました。
何やら木の葉で作った蓑のようなものが、彼の体に被せられました。
その時から、忍剣が何を尋ねても、猿は返事をしなくなりました。
そして、同じ味の食物が、毎朝一片ずつ木の上へ運ばれてくることは変わりませんでした。
昨日も今日も、山は晴天続きです。
空の青さといったらありません。
樹林の梢を透かして見える、清らかな秋の空の青さ。
美しい朝陽の光線が、細い梢から、木の根の苔から、滝壺の底のそのまた底まで、少しずつ行き渡っていました。ヒヨドリ、ブンチョウ、コマドリ、ユウゼンチョウといった小さな鳥たちが、紅葉を蹴散らしながら歌い交わしています。
朝の機嫌が良いリス、はしゃぎ回るムササビ、雨を嫌うテンなどが、尻尾を振りながら餌を探しに出てきました。
あたりには山ブドウが腐るほど実っています。
栗の実もいたるところで弾けています。
プンと発酵したカリンの実や、熟した柿が岩の間に落ちて、甘い酒のようになっています。
「鳥も吸いなさい、リスも飲みなさい、ハチも運んでおくれ」とでも言うように。
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