初級翻訳・神州天馬侠 第4話

吉川 英治

さっと湖の中心には水けむりが上がりました。
その一瞬のうちに、舟も、忍剣も、宝物の入った石櫃も、たちまち湖の波の中にその姿を深く沈めてしまったのです。
「ややっ!」
驚きのあまり我を忘れて、伊那丸が湖の岸辺まで駆け出したのは、まさにその時でした。――なにものか、
「待てッ」
と後ろから、彼の襟首をつかんだ大きな腕がありました。

二

「小童(こわっぱ)、うごくと命がないぞ」
ずるずると引きもどされた伊那丸は、声をだすこともできませんでした。
だが、とっさに片膝をおいて、腰の小太刀(こだち)を抜き打ちに、相手の腕の根元を斬りあげました。
「や、こいつが」と、不意をくらった男は手をはなして飛びのきました。
「だれだッ。なにをする――」
とそのすきに、小太刀をかまえて言い放った伊那丸には、幼いながらも天性の気高い威厳がありました。
目の前に立った大男は、ひとりではありませんでした。
そろいもそろった荒くれ男ばかりが十四、五人。巻き大刀に革の胴服を着た者もいれば、小具足(こぐそく)や脛当(すねあて)などをはいた者もありました。
いうまでもなく、戦国の乱世の裏で暗躍する野武士の群団です。
「見ろ、おい」と、ひとりが伊那丸をきっと見て、
「綸子(りんず)の小袖に菱の紋だ。武田伊那丸というやつに相違ないぜ」と、言いました。
「うむ、ふんじばって織田家へわたせば莫大な恩賞がある、うまいやつがひっかかった」
「やいッ、伊那丸。われわれは富士の人穴を砦としている山大名の一味だ。てめえの道づれは、あのとおり湖水のまんなかで水葬式にしてくれたから、もう逃げようとて逃げるみちはない、すなおにおれたちについてこい」
「や、では忍剣に矢を射たのも、そちたちか」
「忍剣かなにか知らねえが、いまごろは山椒魚(さんしょううお)の餌食(えじき)になっているだろう」
「この土蜘蛛(つちぐも)め……」
伊那丸はくやしげに唇をかんで、にぎりしめていた小太刀の先をふるわせました。
「さッ、こなけりゃふんじばるぞ」
と、野武士たちはかれを少年とあなどって不用意にすすみでました。その瞬間、伊那丸は飛びあがって、
「おのれッ」
と言いざま、真眉間(まみけん)をわりつけました。
野武士どもは、それッと大刀をぬきつれて、前後からおっとりかこみました。
武技にかけては、躑躅ヶ崎(つつじがさき)の館にいたころから多くの達人や猛者たちに手をとられ、ふしぎな天才児とまでおどろかれた伊那丸です。
からだは小さくても、太刀は短くても、たちまちひとりふたりを斬ってふせた早わざは飛鳥(あすか)のようでした。
「この童(わらべ)め、腕をあげるぞ、ゆだんするな」
と、野武士たちは白刃の鉄壁をつくってせまります。
その剣光のあいだに、小太刀ひとつを身のまもりとして斬りむすび、飛びかわしする伊那丸のすがたは、あたかも嵐のなかにもまれる蝶か千鳥のようでした。
しかし、時がたつほど疲れはでてきます。息はきれます。
――それに、多勢に無勢です。
「そうだ、こんな名もない土賊どもと斬りむすぶのはあやまりだ。じぶんは武田家の一粒としてのこったたいせつな身だ。しかもおおきな使命のあるからだ――」
と伊那丸は乱刀のなかに立ちながらもふとこう思ったので、いっぽうの血路をやぶって、いっさんににげだしました。
「のがすなッ」
と野武士たちも風をついて追いかけてきます。
伊那丸は芦の洲からかけあがって、松並木へはしりました。
ピュッピュッという矢のう音が、かれの耳をかすめて飛んでいきました。
夕闇がせまってきたので足もともほの暗くなりましたが、松並木へでた伊那丸は、けんめいに二町(約二百メートル)ばかりかけだしました。
するとどうでしょう、前面の道は八重十文字(やえじゅうもんじ)に、藤づるの縄がはってあって、かれのちいさな身でもくぐりぬけるすきもありません。
「しまった」と伊那丸はすぐ横の小道へそてっていきましたが、そこにも茨のふさぎができていたので、さらに道をまがるとまた藤づるの縄があります。
折れてもまがっても抜けられる道はないのです。
万事休す――伊那丸は完全に、蜘蛛手かがり(網の目のように仕掛けられた罠)という野武士の術中におちてしまったのです。
身に翼でもないかぎりは、この罠からのがれることはできません。
「そうだ、野武士らの手から織田家へ売られて名をはずかしめるよりは、いさぎよく自害しよう」
と、かれは覚悟をきめたとみえてうすぐらい林のなかにすわりこみ、脇差を右手にぬきました。
切っ先を袂(たもと)にくるんで、あわや身につきたてようとしたときです。
ブーンと飛んできた分銅が、カラッと刀の鍔(つば)へまきつきました。
や? とおどろくうちに、刀は手からうばわれて、スルスルと梢(こずえ)の空へまきあげられていきます。
「ふしぎな」と立ちあがったとたん、伊那丸はドンとあおむけにたおれました。
そしてそのからだはいつのまにか罠縄(わなわ)のなかにつつみこまれて、小鳥のようにもがいていました。
すると、いままで鳴りをしずめていた野武士が八方からすがたをあらわし、たちまち伊那丸をまりのごとくにしばりあげて、そこから富士の裾野へさして追いたてていきました。

三

幾里も幾里ものあいだ、ただいちめんに青すすきの波です。
その一すじの道を、まっくろな一団の人間が、いそぎにいそいでいきます。
それは伊那丸をまんなかにかためてかえる、さっきの野武士たちでした。「や、どこかで笛の音がするぜ……」
と誰かが言ったので、みんなはピタッと足を止めて耳をすませました。
なるほど、静けさの中に、そよ風の合間をぬって、澄み切った美しい笛の音が流れてきました。
「ああ、わかったぞ。
咲耶子(さやこ)さまが、また遊びに出かけておられるにちがいない」
「そうかしら? だけどあの音色は、男の人のようじゃないか。
どんなやつが忍び込んでいるともかぎらないから、油断するなよ」
とお互いに注意し合いながら、再び道を急ぎ始めると、すぐそばの草むらから、月毛(つきげ)の野馬に乗った、髪をさげた美しい少女が、ゆらりと気高い姿をあらわしました。
一団の男たちはそれを見ると、
「おう、やっぱり咲耶子さまでございましたか」
と、荒くれ武士とは思えないほど、花のような美少女の前に腰をかがめて、ていねいに頭を下げました。
「じゃあ、お前たちにも、わたしが吹いていた笛の音が聞こえたのかい?」
と馬を止めた咲耶子は、美しい微笑みを浮かべながら見下ろしましたが、ふと、伊那丸の姿を目にとめて、三日月のような美しい眉をちらりとひそめながら、
「まあ、その幼い方を、そんなにぎょうぎょうしく縛り上げてどうするつもりです。
伝内や兵太もいながら、なぜそんなむごいことをするんです」
と、きびしく咎(とが)めました。
名前を呼ばれたふたりの野武士は、一歩前に出て、咲耶子の馬に近づきました。
「まだご存じありませんでしたか。
これこそ、お頭(かしら)がずっと前から狙っていた武田家の御曹司(おんぞうし)、伊那丸でございます」
「お黙りなさい!
捕虜にするとしても、身分のある敵に対しては礼儀を尽くすのが武士の道というものです。

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