初級翻訳・神州天馬侠 第164話

吉川 英治

しかし、築城家のほうはどうだろうかと鼻かけ卜斎が目を凝らし、呂宋兵衛は法術部を気にし、菊池半助が同じように忍法部の試合相手の名を眺めているのは、当然の人情というものでした。

その忍法部に署名されているのは――

百地流  霧隠才蔵(浪人)
魔風流  魔風来太郎(伊賀郷士)
同流  永井源五郎(浪人)
愛洲移香流  天狗太郎(浪人)
戸沢流  猿飛佐助(浪人)
甲賀流  虎若丸(甲賀郷士)

といった面々で、その名を見ただけで菊池半助のこんどの試合はすこぶる苦戦を強いられそうだと分かり、「うーむ、猿飛も来ているか……」と、うめくように言って顎を押さえたままうずくまりました。

では、築城術の論議試合は人数が少ないかと思いきや、ここにも相当な有名人の名が見えるのは、さすが戦国時代の学風と言えるでしょう。

天鼓流  村上賛之丞(越後領)
八車流  牧野雷堂(四国領)
月花流  柳川佐太夫(熊本領)

もっとも、この中には城の工匠や、土地や水の測量専門家なども混じっていますが、上部八風斎(じょうぶはっぷうさい)の鼻かけ卜斎にしても、これらの人々と築城術の論戦をして勝ち抜くのは、なかなか楽ではなさそうです。

ただ、さすがに人が少ないのは法術師・幻術家の部で、ここにはたった一人の名がぽつんと記されているだけでした。しかも、その名は聞いたこともありません。

役小角(えんのおづぬ)後学  烏龍道人(信州黒姫)

という人物です。こんな者は試合にも及ばず、南蛮流幻術の息一つで吹き飛ばせば済むことだと、呂宋兵衛はすっかり安心してしまいました。
けれど、大講会当日の試合はこれだけではありません。まだ火術、小具足術、槍、薙刀、鎖、手裏剣、棒と、あらゆる武技や術が含まれているのですから、果たして、たった三日のあいだにそれだけの試合ができるのかどうか疑わしいほどです。

晴れ舞台の明日を前にして、何を密議するのか。その晩、徳川家に関係する者たちばかりが頭を寄せ合い、遅くまで声をひそめていました。
そしてついに、その日はやってきたのです。
暁の雲を切り裂く、夜明けの一番太鼓。
御岳のいただきから、とうとうと響き渡りました。

四

雲の高さよりも高く、南に見えるのは富士山です。
甲斐の連山や秩父の険しい峰々も、みなこの晴れの日を祝福するかのように御岳のまわりを取り囲んでいました。
頂上には蔵王大権現のお社があります。遠い昔、武神である日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の帰りに、地の守りとして鉄の鎧を埋めたというその聖地は、いま、燃えんばかりの紅葉の真っ盛りです。
それを正面の高い石段から見上げ、広い平地の周囲も、またそこから見下ろす渓谷も、四方の山も沢も、すべての木々が鮮やかな赤に染められ、晩秋の空気は透き通るように澄みきっていました。

その時――。
頂上の神前で二番太鼓が鳴り響きました。
さわやかな秋風が一陣、真っ逆さまに吹き下りて、地上の紅葉を天空へとさらっていきました。広場に張り巡らされた鯨幕や、あちこちに陣取った諸家の定紋幕が、波のようにパタパタと風に揺れています。
大講会第一日の朝――。
群衆は、このすがすがしい試合場の周囲に、まるで木の葉が重なるように静まり返っていました。
彼らは、三番太鼓が鳴るのを待ちわびていたのです。
その中に、伊那丸の姿がありました。
そばには、帷幕の人々である小幡民部、木隠龍太郎、山県蔦之助、巽小文治、加賀見忍剣、鞍馬の竹童が、皆ひとつところに並んでいます。
ただ、咲耶子の姿だけが見当たりません。
源氏閣の上から、大鷲の羽風とともに姿を消した咲耶子はいったいどうしたのでしょうか?
それは、今日までの間に竹童、龍太郎、小文治の三人が八方くまなく捜索してみたものの、その消息が得られなかったため、やむを得ず伊那丸との約束もあることから、一時断念して参会したのでした。

「まだ大講会は始まりませんか」
小文治が民部に話しかけます。
「三番太鼓が鳴るのを合図として、あの祭壇で御岳の神官と大勢の御岳行者が儀式を行う。そして黄母衣、赤母衣、白母衣の三騎が試合場を一巡し、大講会第一番の試合番組を触れ回ると、間もなく貝の合図とともに、あの祭壇の下にある大講会のむしろへ論客が上がり、築城論議を始めるはずだ」
「ほう、では最初は築城試合でございますかな」
「昨年はそうであったと聞き及んでいる」
「陣法勝負などの場合は、やはり論議だけでございましょうか」
「足軽を何百人ずつか借り受けて、実際の陣取り合戦になる場合もある」
「それは壮観でしょうな」
と、小文治は若々しい目で言いました。
伊那丸は二人の話を小耳にはさみながら、
「わしが幼いころは、もっと盛んなものであった」
と、遠い思い出を語ります。
「左様でございましょうとも。信玄公ご在世のころと比べれば比べるべくもないと、町人たちもささやいております」
忍剣も恵林寺にいたころ、一度だけその盛時を見たことがあるので、追憶はひとしお深いものがありました。
「思えば無念至極!」
突然、龍太郎が興奮した口調で、
「お家の行事も今や徳川に奉行されて、御岳の神前に武田菱の幕ひとつ見えませぬ」
と、強く言い放ちました。
「しかし、仮にお家のかたちは滅びたとしても、ここに武田の人間がいることを知らせてやりたい」
と蔦之助も応じます。
忍剣は伊那丸の前へスッと歩み寄り、何か揺るぎない決意を秘めながら、
「若君、昨夜もお願いした通り、兵法大講会は故信玄公が甲斐の武風を天下に示した行事。われわれが生涯の思い出としたいと存じますゆえ、なにとぞ大講会に参加する闘士として、飛び入りをお許しください」
と熱願しました。
それは一同の希望でした。昨晩も月ノ宮の垢離堂で、血気盛んな面々がみな口をそろえて「自分たちも闘士として出場し、この秋、徳川家司宰のもとで行われる大講会を木っ端微塵にしてやろうではないか」と意気込んでいたのです。
「痛快だ!」
「武田家の大行事を徳川家に踏襲されるくらいなら、この秋限りで根絶させろ」
「それこそわれわれの願うところ、ぜひとも試合に出る」
「武をもって横行する連中の顔色を失わせてやろうぞ」
「武田は滅びても人は滅びずと、天下に名乗りを上げるのだ」
と、やむにやまれぬ鉄血の志士たちが、膝を折って伊那丸にすがります。
だが伊那丸は――昨夜もいまも、
「許す!」
という一言を、彼らの熱望に対して容易に与えようとはしません。
「……だが、冷静にこうして眺めているのもおもしろかろう」
と微笑んでいるばかりです。
柳に風といった様子。
(君でありながら、なんと憎らしい態度か!)と、彼らはひそかに恨めしく思いました。
また、小幡民部もあまり興味がないような顔つきで、取りなしてくれる様子もありません。それが他の者たちをいっそうジリジリとさせました。
腕が鳴り、肉がうずく思いを飲み込むとは、まさにこのことでしょう。
龍太郎も、小文治も、蔦之助も、忍剣も、髀肉の嘆を漏らしながら、四本の鎖で繋がれた四匹の豹のような眼光を揃えて、両肘を張っていました。

いきなり鳴った! その時です。
ドウ――、ドウーン……
耳を打つ、天空の声。

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