あるのはただ、一面の秋草の波に、秋風がザーッと吹き抜けていく音ばかりでした。
まるでキツネにでもばかされたような、ぽかんとした様子を丘の上から眺めていた咲耶子は、帯のあいだに笛をはさみながら、ニッコリと微笑みを浮かべ、丘のうしろへと飛び降りようとした、まさにその時でした。
「咲耶子とやら、もうお前の逃げ道はないぞ!」
きりっとした声が、どこからともなく響いてきました。
「えっ?」思わず目をみはった彼女の目の前に、ヒラリと飛びあがってきたのは、いつの間にここへ来たのか、さっきまで軍配をとって敵陣に姿を見せていた小幡民部でした。
「あっ!」
さすがの彼女もびっくりして、丘の向こうへ走り出そうとしましたが、その目の前に、四天王の一人である佐分利五郎次(さぶりごろうじ)が、八、九人の武士を引き連れ、槍を並べて壁のように立ちはだかりました。
「ハッ」と思って横へまわろうとすれば、そこからも不意に「ワーッ」とときの声があがりました。
後ろへ抜けようとすれば、そこにもやっぱり敵がいます。
いまや完全に四面楚歌(しめんそか)、まわりはすべて敵だらけです。
絶望の胸をかかえて、ただ立ちすくむよりほかありませんでした。
そうこうするうちに、丘の上は穴山方の薙刀(なぎなた)や太刀を持った兵士たちでいっぱいにうずまり、まるで剣の生えた林や針の山のようになってしまいました。
「咲耶子、咲耶子! もうどんなにもがいても、この八つの門ですべてを固めた鉄壁の陣から逃れることはできないぞ。おとなしく縄にかかるんだ!」
小幡民部は、声を張り上げてそう言いました。
悔しそうにぐっと唇をかみしめていた咲耶子は、ふたたび隠れた野武士たちを呼び出すつもりなのか、帯のあいだにさしていた横笛を引き抜き、サッとふりあげようとしました。しかしその一瞬、
「ええい、生意気な女め!」
佐分利五郎次が飛びかかるやいなや、ガラリとその笛をピシャリと打ち落としてしまいました。それと同時に、右側から走りよってきた足助主水正(あすけもずのもりまさ)も素早い技で組みつき、あわれ、野百合(のゆり)のようにか弱い小娘は、情け容赦(ようしゃ)もなくねじりあげられてしまいました。
――いよいよ天罰がくだる時がきたのです。
一
たった一人の少女を捕まえるのに、四天王ともあろう者や多くの荒武者たちが総がかりで向かうなんて、大人げなくて恥ずかしいことであるはずなのに、彼らはまるで敵の大将の首でもとったかのように、「ワッ」と勝ち鬨(かちどき)をあげながら、丘の上から降りていきました。
まもなく、馬の前に引き立てられてきた咲耶子をひとめ見た梅雪入道は、馬の鞍の上からハッと睨みつけて、こう言いました。
「こら、小娘め! よくもよくも、『道案内をしてやろう』などと言いながら、さんざんわしをバカにして遊んでくれたな!」いまこそ、その細首をぶち落としてくれるから待っておれ!」
顔を真っ赤にして、馬の上のから怒鳴りつけたあと、
「民蔵! 民蔵!」と、はげしく呼びつけました。
「はっ!」と駆け出した小幡民部は、ちらっと入道の顔色をうかがいながら、片手をつきました。
「なにかご用でございましょうか」
「おお民蔵か。見事なその軍配さばきだった。褒美は国へ帰ったあとにたっぷりとやろう。ところで、この生意気な小娘を生かしておくわけにはいかん。お前に首切り役を言い渡すから、わしの目の前で血祭りにあげてくれ」
「いえ、それはどうか少しお待ちください」
「なに、待てと言うのか?」
「御意にござります。
いまこの小娘を処刑してしまえば、さきほど手こずった野武士たちが、また復讐に襲いかかってくるに違いありません。
もとより、何千何万の野武士が現れようとも恐れることはありませんが、この小娘を生け捕りにしたのは、おとりとして殿のお役に立てるためなのです。ここでむざむざと首をはねてしまうのは、もったいないかと思いますが、いかがでしょうか」
「奇想天外な作戦を考えるお前のおかげだから、もっと良い考えがあるなら任せるが……。で、この小娘をおとりにして、どうするつもりだ?」
「秘中の秘でございます。味方といえども、他の人々の前では、ちょっとお話しできません」
「もっともだな。では、これに書いてみせよ」
ヒラリと投げられたのは、一枚の軍扇でした。
民部はすぐに矢立(筆記具入れ)を取り寄せ、筆をとると、サラサラと八行の詩を書き、自分で梅雪の手もとへ返しました。
「どれどれ」と、入道はそれを受け取り、馬の上で扇に書かれた文字を読んで――
「ふむ、どこまでもお前はすごい軍師だな」と自分の膝をたたいて感心しました。
その秘策とは、これから馬を進めて五湖の底にあるという武田家の宝物「御旗楯無(みはたtateなし)」を探し出し、同時に、伊那丸(いなまる)もそこで討ち取ってしまおうという、恐ろしい作戦でした。
じつは穴山梅雪も、これから甲斐の国へ入るにあたって、武田の残党がいるかもしれないため、伊那丸の首をどこで討つべきか悩んでいたところだったのです。
しかし、この富士のふもと(裾野)なら安心ですし、御旗楯無の宝物まで手に入れば一石二鳥、こんなにうまい話はありません。
すぐにまた京都へ引き返し、織田家(徳川家康)からたくさんのご褒美をもらい、そのあとで国へ帰っても決して遅くはないはずです。
「そうだな、この小娘もそのときに首をはねれば、手がかからなくてすむ……」
梅雪はそう思ったらしく、ここまですっかり信頼している民部の作戦にすべてを任せることにしました。そして、再び部下たちを一列に並べさせ、民部と咲耶子を先頭にして、裾野を西へ西へと進んでいきました。
その道すがら、民部はなにやら低い声で咲耶子にささやいているようでした。
賢い彼女は、黙々と聞こえないふりをして歩いていましたが、その瞳はときどき、驚いたような表情を民部に向けるのでした。
そんな二人の細かいようすは、はるか後ろの馬からついてくる梅雪の目には、特に怪しいようには映りませんでした。
やがて、裾野の野原の道がなくなり、長い森の中に入っていきました。
そこを通り抜けると、木の間から青いさざ波が見えてきました。
「おお、湖に出たぞ! 湖が見えた!」
兵士たちは、砂漠で泉を見つけたかのように、口々に歓声をあげました。
その湖のほとりには、小さな神社があるのも目につきました。
スタスタと神社の前へ歩み寄った小幡民部は、「白旗の宮」と書かれた額を見上げながら、「白旗の宮?……源氏にゆかりがありそうだな……」とつぶやいて首をかしげましたが、ふっと向き直ると、今度は恐ろしい顔つきで咲耶子を問い詰めはじめました。
「おいっ!
武田家の宝物をしずめた湖は、ここであっているんだろうな? 嘘をついたら痛い目にあわせるぞ、どうなんだ!」
「は、はい……」咲耶子は急におとなしくなり、そこにひざまづきました。
「もう隠し通すことはできません。
おっしゃる通り、御旗楯無の宝物は石の箱に入れて、この湖の底に沈めてあるに違いありません」
「本当にかちがいないのだな!」
「神にかけて、嘘は申しません」
「よし、よく白状したな。
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