初級翻訳・神州天馬侠 第29話

吉川 英治

それを見た怒りに燃えた入道は、
「ええ、ふがいない部下どもめ! こうなったからには、この梅雪が自ら蹴散らしてくれよう!」
両の手綱を左手にまとめ、右手に陣刀をふりかざすと、あわや乱戦の中へ馬首をむけて駆け入ろうとしました。
とその時、
「しばらく、しばらく! いったいわが君は、そのお命をどこへ捨てに行かれるおつもりでござるか!」
声高らかに呼び止める者がいました。
「なに?」ふり返ってみると、それは伊那丸の駕籠の上に立った小幡民部でした。
梅雪はせき込んで、
「やあ、民蔵、お前はなにゆえ、そんな不吉なことを言うのか」
「なにしろ、殿のお身柄を大切に思えばこそでござます」
「して、どんなわけがあるというのだ」
「目を大きくしてご覧なさい。
敵は野武士といえども、神がかり的で不思議な少女の陣法によって動いている、これすなわち奇襲の兵でござる。
あなどってその策にかかれば、殿のお命まで危ういことは明らさまでござまする」
「ふむ……で、その陣法とは何だ」
「伏せ現れが自在な『胡蝶の陣』でござる」
「これを破る手立てはあるのか?」
「ございませぬ」
「ばかな!」
「うそとおぼしめすか」
「当たり前だ! 年端もいかない女の子が指揮する、百人足らずの野武士風情に、どうして破れぬことがあろうか」
「では、しばらくここで周囲を見渡してご覧なさい。
おお、佐分利五郎次の組は破られた! ああ、足助主水正もたちまち袋のねずみだ……」
「なに、わが四天王なれば、今にきっと盛り返して、あんな野武士どもをみな殺しにしてくれるわ!」
「危ういかな、危ういかな! あそこの窪地へ追い込まれた猪子伴作、天野刑部、その他十七、八名の味方共こそ、すんでのところで敵の術中におちいり、みな殺しにされるところですぞ」
「な、な、な、なんと!」
「おお! 殿もご用心くだされ! 早くも伊那丸の駕籠を目がけて、全勢力の力をあつめてくるような敵のすさまじい変化と見えまするぞ」
「お、お、お、民蔵、民蔵よ、お前に何か策はないのか?」
梅雪の様子は、にわかに焦り色に染まっていきました。
「おそれながら、しばしのあいだ、殿の軍配をこの拙者にお預けくだされば、必ずや敵の奇襲を破って味方の勝利となし、なおかつ、野武士をあやつるあやしき少女をも生け捕りにしてご覧に入れましょう」
「許す! 一刻も早く味方の者たちを救い出せ!」
あんなに強情だった穴山梅雪も、論より証拠、民部の言ったとおり味方がさんざんに敗北していくのを見て、もう遠慮している余裕もなくなったのでしょう。
ぐっと駒を寄せてきて、小幡民部の手へと采配を手渡しました。
「御免!」
それを受け取って頭上にいただいた民部は、駕籠の上に立ったまま、八方の戦況をキッと見渡すと、おごそかに軍師としての姿勢をとり、采配のさばきも鮮やかに――
さッ、さッ、さッ。
空中に半円を描き、風を切ること三度。
ああ、なんと見事な手際でしょう。それはまるで、本朝の諸葛亮か孫呉かといわれた甲州流の軍学家、小幡景憲の軍配さばきとそっくりそのままではありませんか。
「おやっ?」
よもや、新参の民蔵がその人の息子・民部であろうとは夢にも思っていなかった梅雪入道は、思わず驚きの声を漏らしてしまいました。

三

月の夜には澄み、朝には露を転がしても、聞いてくれる人もいないこの裾野で、ただひとりで楽しんでいる笛は、咲耶子が好きで好きでたまらない横笛に違いありません。
しかし、その優雅な横笛は、時には身を守る剣ともなり、時には猛獣のような野武士たちを自由自在にあやつるムチともなるのです。
いまちょうど、小高い丘の上に立ってその愛笛を頭高くささげ、部下の動きから片時も目を離さずにいる彼女の姿は、地上に舞い降りた金星の化身と言おうか、富士の女神とたとえようか、丈の長い黒髪が風にみだれて、麗しいという言葉のほかには言いようがありません。
「あっ――」
ふいに、彼女の唇からかすかな驚きの声がもれました。その瞳の輝くところを見れば、いまがいままであちこちにバラバラに乱れていた穴山梅雪の家来たちは、一人の武士の軍配(ぐんばい)を見るやいなや、サッと退いて中央へと一列に並びました。
それは民部が作り出した蛇の形をした陣、蛇形(じゃけい)の陣でした。
咲耶子はチラと眉をひそめましたが、すかさず右手の笛をはげしく斜めに二度ふりおろし、最後に左の肩へとサッと持ち上げました。
――それを合図にした野武士たちの猛々しい勇気は、「ワッ」とときの声をあげて、蛇形陣のおなかや背後から、勝ちに乗って襲いかかりました。
その瞬間、ふたたび民部の軍配が、まるで龍を呼び出すかのようにさっと動きました。
と見ると、蛇形の列は突然ふたつに折れ、さっきとは打って変わって一糸みだれず、扇の形になってジリジリと野武士たちの隊列を遠くから包み込むように囲んできました。
「あっ、いけない。あれはおそろしい鶴翼(かくよく)の計略だ!」
咲耶子は少しあわてて、笛を天から下へと何度も力いっぱいふりぬきました。
それは退却の合図だったのか、いままで攻め込んでいた野武士たちは、一斉にドッと潮が引くように引きあげていきました。
しかし、民部の軍配は、それに息をつく暇(ひま)もあたえず、たちまち八つの方向を攻撃する急な陣形へと変え、まるで奔流(ほんりゅう)のようなす早さで、「追え、追え!」と猛烈に追いかけていきました。
「おお、なんとということだ……!」
あまりの悔しさに、咲耶子はさらに何度も「胡蝶(こちょう)の陣」を立てなおして、反撃しようと試みました。
しかし、こちらが火の陣をしけば、むこうは水の陣を流して防ぎ、その軍配さばきは、まるで中国のすごい軍師(孫子や呉子)の生まれ変わりか、あるいは有名な武将(楠木正成)の再来かと思わせるほど、戦況に応じた技の数々きわまりなく、まるで自分の手足のように、次から次へと奇抜な作戦を繰り出してきます。
さすがの胡蝶陣の達人である咲耶子も、いまや打つ手なしとなってしまいました。
あんなに強かった彼女の部下たちの刃も、いまではだんだんと疲れていくばかりです。
「それっ、このチャンスを逃すな!」
「どこまでも追って、追って、追いかけまくれ!」
「裾野(すその)の野武士たちを根絶やしにしてやるのだ!」
穴山の四天王である猪子伴作(いのこばんさく)、足助主水正(あすけもずのもりまさ)、その他の家来たちは、民部の神のような軍配さばきによって、たちまち勢いをとりもどし、血に染まった槍をふりまわしながら猛烈に追いかけていきました。
西へ逃げれば西に敵がおり、南へ逃げれば南に敵がふさがり、すっかり民部の作戦に振り回されてしまった野武士たちは、いよいよ地面にもぐるか空を飛ぶかしなければ、逃げる道はどこにもなくなってしまいました。
すると、咲耶子のいる丘の上から、なんとも悲しげな調子の笛の音が一声高く響いたかと思うと、いままであちこちにわらわらと逃げまわっていた野武士たちの姿は、突然、草むらのなかにスーッと隠れてしまいました。
肝を冷やした穴山一族の兵士たちは、血眼になって草を分け、小川のほとりを駆けまわりましたが、もうどこにも一人の敵すら見あたりません。

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