そこへ、一陣の心地よい風が吹きました! 彼を狂喜させた便りは、まさに天の果てから届いたのです。
クロの足に結びつけられた伊那丸の血文字、そして竹童が持ち帰ってきた果心居士の手紙。
彼はあふれ出る涙を拭いながら、その二つの手紙を何度も何度も繰り返し読みました。
「この手紙を受け取ったらただちに旅立てとある――オオ、こうしてはいられないぞ!
竹童とやら、はるばる使いに来てくれてご苦労だった。わしはこれからすぐに、伊那丸さまのおられる場所へ急がねばならぬ。鞍馬(くらま)へ戻ったら、どうかご老台(ろうだい=果心居士のこと)によろしくお礼を伝えておくれ」
「はい、わかりました!
だけどお坊さん、おいらは少し困ったことができちゃったんだ」
「なんだ? 使いの褒美として、大抵の願いなら聞いてやろう。なにか欲しいものがあるなら言うがよい」
「ううん、褒美なんかいらないんだけど、そのクロっていう鷲は、お坊さんのものなんだよね?」
「いやいや、この鷲は私の飼い鳥というわけでもない。持ち主といえば、武田家に由緒の深い鳥ゆえ、まず伊那丸君のものと言っておこうか」
「ねえ、おいら、本当のことを言うと、このクロと別れるのがいやになってしまったんだよ」きっと大切にして、いつでも用のある時には飛んでいくから、おいらにかしといてくんないか」
天真爛漫な願いに、忍剣もおもわず微笑んでそれをゆるした。
竹童は大よろこび、あたかも友だちにだきつくようにクロの背なかへふたたび身を乗せて、忍剣に別れを告げるのも空の上から――いずこともなく飛びさってしまった。
間もなく、高尾の奥院からくだってきた加賀見忍剣は、神馬小舎から一頭の馬をひきだし、鉄の錫杖をななめに背にむすびつけて、法衣の袖も高からげに手綱をとり、夜路山路のきらいなく、南へ南へと駒をかけとばした。
ほのぼの明けた次の朝、まだ野も山も森も見えぬ霧のなかから、
「オーイ、オーイ」
と忍剣の駒を追いかけてくる者がある。
しかも、あとからくる者も騎馬と見えて、パパパパパとひびく蹄の音、はて何者かしらと、忍剣が馬首をめぐらせて待ちうけているとたちまち、目の前へあらわれてきた者は、黒鹿毛にまたがった白衣の男と朱柄の槍を小わきにかいこんだりりしい若者。
「もしやそれへおいでになるのは、加賀見忍剣どのではござらぬか」
「や! そういわれる其許たちは」
「おお、いつか裾野の文殊閣で、たがいに心のうちを知らず、伊那丸君をうばいあった木隠龍太郎」
「またわたくしは、巽小文治ともうす者」
「おお、ではおのおのがたも、ひとしく伊那丸さまのおんために力をおあわせくださる勇士たちでしたか」
「いうまでもないこと。
忍剣どのおはなしは、くわしくのちにうけたまわった。
じつは我々両名の者は、小太郎山に砦をきずく用意にかかっておりましたが、はからずも主君伊那丸さまが、穴山梅雪の手にかこまれて、きょう裾野へさしかかるゆえ、出会せよという小幡民部どのからの諜状、それゆえいそぐところでござる」
「思いがけないところで、同志のおのおのがたとお会いしましたことよ。
なにをつつみましょう。
まこと、わたくしもこれよりさしていくところは、富士の裾野」
「忍剣どもお加わるとなれば、千兵にまさる今日の味方、穴山一族の木ッ葉武者どもが、たとえ、幾百騎、幾千騎あろうとも、おそるるところはござりませぬ」
「きょうこそ、若君のおすがたを拝しうるは必定です」
「おお、さらば一刻もはやく!」
轡をならべて、同時にあてた三騎の鞭! 一声高くいななき渡って、霧のあなたへ、駒も勇士もたちまち影を没しさったが、まだ目指すところまでは、いくたの嶮路いくすじの川、渺茫裾野の道も幾十里かある。
霧ははれた。
そして紺碧の空へ、雄大なる芙蓉峰の麗姿が、きょうはことに壮美の極致にえがきだされた。
富士は千古のすがた、男の子の清い魂のすがた、大和撫子の乙女のすがた。
――日本を象徴した天地に一つの誇り。
いまや、その裾野の一角にあって、咲耶子がふったただ一本の笛の先から、震天動地の雲はゆるぎだした。
閃々たる稲妻はきらめきだした。
雨を呼ぶか、雷が鳴るか、穴山軍勝つか、胡蝶陣勝つか? 武田伊那丸と小幡民部の民蔵は、どんな行動をとりだすだろうか? 富士はすべて見おろしている――
水火陣法くらべ
一
胡蝶の陣! 胡蝶の陣!
裾野にそよぐ穂すすきが、みな閃々たる白刃となり武者となって、声をあげたのかと疑われるほど、ふいにおこってきた四面の伏敵。
野末のおくにさそいこまれて、このおとしあなにかかった穴山梅雪入道は、馬からおちんばかりにぎょうてんしたが、あやうく鞍つぼに踏みこたえて、腰なる陣刀をひきぬき、
「退くな。
たかの知れた野武士どもがなにほどぞ、一押しにもみつぶせや!」
と、うろたえさわぐ郎党たちをはげました。
音にひびいた穴山一族、その旗下には勇士もけっしてすくなくない。
天野刑部、佐分利五郎次、猪子伴作、足助主水正などは、なかでも有名な四天王、まッさきに槍の穂をそろえておどりたち、
「おうッ」
と、吠えるが早いか、胡蝶の陣の中堅を目がけて、無二無三につきすすんだ。
それにいきおいつけられたあとの面々、
「それッ。
烏合のやつばら、ひとりあまさず、討ってとれ」
と、具足の音を霰のようにさせ、槍、陣刀、薙刀など思いおもいな得物をふりかざし、四ほうにパッとひらいて斬りむすんだ。
「やや一大事! だれぞないか、伊那丸の駕籠をかためていた者は取ってかえせ、敵の手にうばわれては取りかえしがつかぬぞッ」
たちまちの乱軍に、梅雪入道がこうさけんだのも、もっとも、大切な駕籠はほうりだされて、いつのまにか、警固の武士はみなそのそばをはなれていた。
「心得てござります」
いち早くも、梅雪の前をはしりぬけて、れいの――伊那丸がおしこめられてある鎖駕籠の屋根へ、ヒラリととびあがって八ぽうをにらみまわした者は、別人ならぬ小幡民部であった。かりにも、のりものの上へ、土足で飛びあがった罪――ゆるしてください――と民部は心の中で謝っていましたが、そんなことは露知らない梅雪入道は、ちらりとこの様子をながめると、
「お、新参の民蔵ではないか。いつもながら機転がきくやつだ……」
と、心強く思ったのかニッコリと笑いましたが、ふとまた別のほうをふり返り、たちまち顔色を変えてしまいました。
二
咲耶子が吹いた横笛の合図とともに、おそいかかってきた人数はだいたい八、九十人。それに向かって斬りかかっていった穴山方の部下たちもおよそ七、八十人と、数の上から見ればまさに互角の戦いでした。
しかし、一方は勢いはあるけれど訓練されていない野武士の集まりです。
こちらは兵法の駆け引きや、実戦の経験も確かな兵士たちです。
梅雪入道でなくても、当然、勝ち目は穴山方にあると信じられていました。
ところが形勢はガラリと変わり、どうしたことか、四天王以下の面々は名もなき野武士たちの剣先においちらされ、胡蝶の陣の変化自在な戦い方に目をくらまされ、足元をすくわれて総崩れになってきたのです。
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