初級翻訳・銀河まつり 第8話

吉川 英治

――この前、気に食わない慎吾の顔を見て、ふいに止めてしまった陣屋跡の古家――そこへ来たのである。
頬被りをすると、すぐに犬のように這って、縁の下へ潜り込んだ。
いつかの時は、この不格好な姿を慎吾に見られるのが嫌で引き返したのかもしれない。
土台の柱は、みんな白蟻に食われたように腐っていた。建ってから一世紀以上は経っている――湿った陰鬱な闇が顔を包む。
その土台の柱を数えて、何本目かを撫で回すと、小さい土掻きと籠があった。
彼はその土掻きの刃で、土の表皮を三寸ぐらいずつ削ぐように掻いて、籠へ土を盛り込んだ。
「七の火薬は別格だぜ」
と仲間も常に彼の出す強力な火勢には驚いていたが、その硝石の宝庫は、この古家の床下だったのである。もちろん、その土は彼の手で加工され、きれいに洗われてから、まったく別のものへと作り変えられるわけですが。
一かご分を取り終えると、七はびっしょりと汗をかいていました。
ひじを曲げて額の汗をぬぐうと、土と蜘蛛の巣が顔にべっとりとこびりつきます。
「おや?」
ここへは何度も土を採りに来ていましたが、今までになかった異様な現象をそこで目にしました。
すぐ後ろの土台柱に、床板の割れ目から、ほんのわずかですが、明かりが漏れているのです。
花火の妖精さえ信じている七です。
ぞっとするような寒気を背筋に感じながら、蒸し暑い体を冷たい土の上に横たえていると、ホホホと女の笑い声が聞こえ、続いて男の笑い声が響きました。それは低くなったり高くなったりして、淫らな響きがねっとりと耳をくすぐってきます。
「……?」
七の目は闇の中で、まるでフクロウのように見開かれていました。
「人間じゃない。人間の笑い声じゃない。……貉(むじな)かな?」
いや、違う! 彼はもっと恐ろしい想像にたどり着いてしまいました。
自分が墓を暴いた、あのお千代後家の幽霊ではないか、と。
あの淫らな後家によく似た笑い方です。
死ぬ半月前まで、幾人もの村の男を交替で招き入れていた、あのお千代後家の幽霊。
冷たい汗が、すだれのように七の顔を流れ落ちました。
あの世から漏れる火のように、かすかな光はまだそこに漏れていましたが、いつしか床の上の気配は、死んだようにしんと静まり返りました。
先ほどよりもずっと小さなささやき声が漏れてきます。
七は耳に指を突っ込みました。
そのくせ、そこから動くことはすっかり忘れてしまっています。
ざらざらと煤(すす)が襟元にこぼれ落ちてきたので、思わず耳から指を抜くと、突然、外をザーッと雨の音が走り抜けていきました。
ひょいと見ると、白い霧が床下の奥までもうもうと入り込んできます。
雷が鳴りました。
轟々と鳴り響いています!
青い電光が、大地の姿を照らし出しました。
七は、殴られたかのように正気に戻り、転がるようにして床下から這い出しました。
雨垂れがすだれのように激しく打ちつけています。
真っ白な夕立です。
土を持って帰るどころではありません。
いや、そんなことはもう頭から消え去っていました! 彼は着物の裾をたくし上げ、雨のすだれの裏をくぐり抜けました。
建物の裏手に回ると、水口(みなくち)の雨戸が五寸ほど開いていました。
ちらりと見ると、その下には履物が二足並んでいます。
蛇の目傘が一本、その上に渡してありました。
「ありがてえ」
何も考えず、それを手に取ると、パキンと開いて身を隠しました。
ザザザザッと竹樋(たけどい)の水が傘に落ち、滝のように水玉が変化していきます。
ひらめく稲妻に、高社山の肩の線がはっきりと二度ほど浮かび上がりました。
七はしばらく雲を見つめながら、雨が小やみになるのを待っていました。
ようやく雨の筋が少し細くなったので、傘をすっぽりと背負い、池のようになった水の中へ飛び出しました。
――すると、後ろの戸がガラリと開きました。
「おい、待て」
男の声です。
すぐ続いて、女の声が言いました。
「いけませんよ、その傘をさして行っちゃあ」
聞き覚えのある声でした。
七の足は怒りに震えていました。
さしている傘の端を片手で押さえ、バリバリッと引き裂くような勢いで振り返ると、死ぬほど青ざめた顔を紺色の円形の中から突き出し、雨戸の隙間で頬と頬を寄せ合っていた男女に向かって言い放ちました。
「覚えていろよ! 傘か、てめえたちは濡れて帰れ!」

十三

姥捨(うばすて)と冠着山(かむりきやま)を右に見ながら、善光寺平を千曲川に沿って二里ほど上流へ遡ると、山と山の間が開け、広大な河原に出ます。
しんとした薄暮の色が、低く水面に降りていました。
西岸の山の尾根から河原のふちにかけて、屋根に石を載せた豆板(まめいた)のような家がまばらに点在して見えます。
戸倉(とぐら)の温泉でした。
やがてその辺りに、ちらちらと数えるほどの灯火がともります。
「支度がよかったら、そろそろ出かけようじゃないか。もう七之助のほうも、打ち上げ場に行っている時刻だろう」
戸倉の温泉の一軒。
昼間からここに陣取っていた松代藩の者たちがいました。
そのうち四名は慎吾についている藩士でしたが、あとの多くの若侍たちは、何かあった時の備えというつもりで、慎吾が呼び集めた者たちのようです。
「蜂屋氏、うまくやれよ」
「溜飲(りゅういん)を下げて、後で飲む酒を楽しみにしているぞ」
慎吾と介添えの四人を送り出し、彼らはその影が遠のくまで、二階から声援を送りました。
慎吾は振り返って、腕を叩いてみせたりしました。
なかなか元気です。
果し合いの勝負以外に、何か勝ち目があるのでしょうか。
戸倉の暗い辻を出ると、汚い商人宿の軒下に、旅姿の女ひとりと、脚絆と手甲をつけた年配の煙火師(花火師)が二人、首を長くして待っていました。一行を見ると、
「慎吾様!」
と、女が先に走り寄りました。
「お芳殿、心配するな」
顔を見ると、すぐにそう慰めて、
「筒や玉は?」
と、煙火師の方へ向かって尋ねました。
この二人は、果し合いの約束事にも許されて、八寸玉の製作を手伝った男たちです。
「もう先へ送っておきました。場所は決めた通り、笄(こうがい)の渡舟から二町ほど手前のほうで」
「ご苦労だった」「七のほうは、来ているか」
「あいつは河原でハヤを釣っていましたよ。待ちくたびれているんでしょう」
「ふーむ」と慎吾は冷ややかな笑いを浮かべて言いました。
「それならお芳殿、そなたは近くまで行ったら舟に乗って、川の中の丘で休んでいるがいい。なに、一人ではない。丘のほうには拙者の友人を配置してあるのだ」

河原を辿って五、六町も行くうちに、空はすっかり夜の色になりました。足元がわりあいに明るいのは、水面から十尺ほどぼうと青く浮かび上がる水明りのせいでしょう。初夏ならばこの辺りは、佐久地方の高原から流れてきた月見草の黄色で夜も明るいのですが、今は秋草が川洲のあちこちに伸びていました。ピピピ、ピピピ、と河鹿(かじか)の鳴く闇が、なんとなく気を引き締めます。
――すると、小舟が待っていました。慎吾は何か耳打ちして、お芳だけをそれに乗せ、広い川の中の丘へと送ってしまいました。

半町ほど先に、蛍のような赤い火が見えだしました。

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