初級翻訳・神州天馬侠 第116話

吉川 英治

そればかりでなく、今日のような場合でも、腹がたったら独楽で勝った者の言い分を通すなり、あるいは、あやまるということにすれば、なにも掴み合って湖水におぼれるまでの必要もなくなるであろう」

 欲しいものは与えられ、しかも愉快な方法を教えてもらって、どうして少年の心が踊り出さずにいられましょう。竹童は言うまでもなく異存はなく、蛾次郎も一言の不平もなく、必ずその約束を守りますと宮内に誓いました。
 こうしてふたりは、言いつけられた仮面をかぶり、与えられた独楽を大切に抱いて、奥の部屋で、今夜だけは仲良く寝入ってしまいました。

                                 割れたお仮面

一

 死人の顔のように青い月が浮かんでいました。睨みつけているのかと思うほど、冴え渡っています。月というのも、ある夜には恐ろしいものです。
 昼間は蓬莱山の絵のように見えた竹生島も、いまは湖水から半身を乗り出した巨大な魔物のように見え、松を吹き抜ける風は、その魔物の吐息のようで不気味です。

 まさに夜半を過ぎたころ。
 ザブーン! と西浦の岩に何かが打ち当たりました。パッと飛び散ったのは波光です。まるで百千の夜光珠のように見えた水しぶきです。しかし、そこに怪魚のような影が踊っていました。舟であり、人です。

「やッ!」
 と叫んだのは舟中の男でしょう。ほかに人は誰もいません。
 続いてまた、やッ! という声がかかりました。声というよりは、気合いです。
 ピューッと舟から空へ向かって走ったのは、鉤(かぎ)のついた一本の縄でした。ガリッという音とともに手もとに戻ってきて、上からはザラザラと岩のかけらが落ちてきます。
 エイッ、ガリッ! というこの物音を、幾度繰り返したことでしょうか。そのうちに、
「しめた!」
 という声があがりました。うまく投げた鉤の先が、岩松の根にひっかかったようです。
 力を込めて手応えを確かめ、よしと思うと、その男の影は、度胸よく乗ってきた小舟を蹴り離し、スルスルと一本の縄へよじ登りはじめました。度胸も太いし手際もいい。たちまち三丈あまりの絶壁の上へ見事に這い上がり、竹生島の樹木の中へとヒラリと姿を消してしまいました。

 と。それからすぐに――。
 弁天堂のわきにある菊村宮内の家を、トントントンと粘り強く叩き起こしていたのはその男でした。やがて手燭を持って出てきた宮内と、互いに顔を見合わせると、
「や」
「おお」
 と言葉を交わしたまま、中に飛び込んで厳重に戸締まりをし、奥の一室に座って、声をひそめて話しはじめました。

「どうなさいました。このたびの合戦に、北国勢の軍師である貴殿が、かかる真夜中に落ちてくるようでは、いよいよ北ノ庄の城も危ういと見えますな」
「お察しの通り、まことに無残な負け戦。ここへ来て貴殿に顔を合わせるのも面目ないが、じつは、賤ヶ岳の一戦において、この方と佐久間盛政殿の意見が衝突し、そのためにいろいろと手違いが生じたので、いまさら越前へも戻れず……」

 深夜の客は暗然として、話す間も顔を上げることすらできませんでした。
 宮内も、いまは浪人の身であり、すっかり弓矢を捨てた心境ではありましたが、北庄城にいたころの友が、かくも無惨な負け軍で逃げ込んできた姿を見たり、旧主が滅びるという知らせを聞かされては、さすがに一掬の涙が瞳の奥に湧いてくるのでした。「おお……では、あの我の強い佐久間殿と意見が合わず……なるほど。得てして一国が滅びる時には、そのように人の心にヒビが入りやすいものだ」

「それだけではない。彼は賤ヶ岳の戦いを捨てて、先に北ノ庄へ逃げ帰り、こちらの軍配のすべてが乱脈を極めていたと、勝家公へ讒言(ざんげん)したようだ」

「うむ、それはまたあんまりなことだ」

「そうでなくとも、味方の敗軍にいらだっている主君には、手もなくそれを信じて、私を軍罰にかけよという命令を下したのだ」

「や、では……」

「北ノ庄へ帰れば、軍罰に照らされて首を打たれるのは必定。かといって戦場にとどまれば、秀吉の手におさえられて、生恥をさらさねばならぬ窮地に落ちたのでござる。で、やむを得ず、羽柴勢の目をくぐってここまで落ちのびてまいったわけだ。ご迷惑でも、二、三日この島にかくまっておいてはくれぬか」

 静まりかえった座敷の中で、このような湿っぽい密談が交わされていました。
 ハテナ? ハテナ? なんだかどこかで聞いたことのある声だぞ、と亀の子のようにのこのこと布団の中から首をもたげたのは、独楽をもらったうれしさに興奮して、つい寝つけずにいた泣き虫の蛾次郎です。
 こういうことに出くわすと、もともとじっとしていられない性分。よせばいいのに、そろり、そろりと四つん這いではい出して、隣の部屋の向こう側、線香のようにスーッと明かりが漏れているところを目当てに、
「だれだろう? そばで聞くと、よけいに聞き覚えのある声だが……」
 と、目を細めて、烏天狗の仮面をつけたまま息を殺してのぞきました。

二

 見てびっくりするくらいなら、のぞかなければいいものを、襖のすき間に仮面を押し当てた途端に、
「あッ! こりゃいけねえ」
 と仰天して、蛾次郎は自ら、そこに自分がいることを隣の武士に知らせてしまいました。
 草木のそよぎにも気を遣わねばならない落武者の境遇にある者が、なぜそれに気づかないことがありましょうか。いや、当の蛾次郎よりも、はるかに肝を冷やしたのかもしれません。
「や、だれか、隣に!」
 太刀をつかんでパッと立ち上がりました。
 おそろしく背の高い武士。筋骨も太く、容貌もこの上なく凄まじく見えましたが――おお、なるほど、これには蛾次郎が仰天したのも無理はありません。
 だれあろう、この落人こそ、柴田方では一方の軍師と仰がれていた上部八風斎(うわべはっぷうさい)――すなわち、富士の裾野にいた当時は、あだ名されて「鏃師(やじりし)の鼻かけ卜斎(ぼくさい)」といわれていた人物です。
 蛾次郎はそのころ彼の弟子だったのでした。実はまだはっきりとお暇(おいとま)もいただいていないのですから、ここで会ったのはまずいというより、運の尽きです。
「南無三。とんでもねえやつが舞い込んできやがった。こいつぁどうもたまらねえ」
 と、バタバタと奥の方へ逃げ込んだので、八風斎の鼻かけ卜斎は、さては秀吉の回し者でもあろうかと邪推をめぐらせ、そこの唐紙を蹴倒すばかりの勢いで、間髪を入れずにあとを追いかけていきました。
 一足飛びに二間ほど駆け抜けてくると、卜斎はなにかにつまずきました。
「あッ」
 といって布団の中から躍り出したのは、尊の仮面をつけて寝ていた竹童です。
 だが卜斎は、その背格好が似ていることから、これこそが奥へ逃げ込んだ小僧であろうと、拳を固めて殴りつけました。寝込みを襲われたので、さすがの竹童もかわす暇がなく、グワンと血管が破れるような激痛を感じてぶっ倒れましたが、とっさに枕元へ置いて寝ていた般若丸を抜き放ち、相手の足元をサッと薙ぎ払いました。

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