忍剣は鉄杖を縦横無尽に振り回して、やっとの思いで黒ふんどしの黒具足組を追い散らしましたが、ふと気がつくと、伊那丸を隠してきた場所からだいぶ離れてしまっていました。
急いで元の場所へと駆け戻ってみると、なんと、呼子笛を吹いていた部将が抜き身の刀を下げながら、あっちこっちの岩穴を怪しげに覗き回っているところでした。
「おのれっ!」と、忍剣は身を躍らせて一撃を加えましたが、敵もひらりと身をかわし、
「おおい坊主っ、徳川家に降伏して伊那丸を差し出してしまえ。そうすればお前を取りなして出世させてやる」
と、甘い言葉の餌をちらつかせながら、再び刀を大きく振りかぶりました。
「けがらわしい!」
忍剣は鉄杖をしごいて構えました。
らんらんと鋭く輝くその瞳は相手の精気を吸い取るかのようで、忍剣が一歩踏み出すが早いか、敵の頭蓋骨など一撃で粉々に見えました。
そのほんのわずかな隙をついて、忍剣のすぐ後ろへ忍び寄り、片ひざをつきながら、鉄砲(種子島)の銃口をじっと狙い定めた者がいました。
ブスブスと、その手元から赤い火縄が嫌な音を立てて散っていました――さすがの忍剣も、背後のその危険には気づいていませんでした。
彼が振り下ろした鉄杖は、目の前の部将の刀を激しく弾き落としていました。
そして二度目に、ズーンと鉄杖が横薙ぎに大きく伸びたかと思うと、「わっ」と悲鳴をあげて、敵の部将は血の混じった唾を吐きながら真っ逆さまに倒れ込みました。
しかし、まさにその刹那(せつな)でした。
「ズドン!」と、すさまじい発砲の煙が真っ黒に上がったのです――
ハッとして身を縮こまらせた忍剣が、はっと振り返ってみると、鉄砲(種子島)を手にした一人の黒具足の兵士が、何もない空を掴むようにしながら、立ちこめる黒煙の中であおむけにのけぞり倒れていたのでした。はて? と目をこらしてよく見てみると、その敵の兵士のわき腹へ、後ろ手にするりと脇差を突き立てていたのは、いつのまにやら忍びよっていた武田伊那丸その人でした。
「お、若さま!」
忍剣は、若さまのあまりの大胆さと見事な手並みに、びっくりして目を丸くしました。
「忍剣、そちの後ろから、鉄砲を向けようとした卑怯者がいたからな。わしが、このようにしてやったぞ」
伊那丸は、にっこりと笑顔でそう言いました。
富士の山大名
一
木の実を食べたり、小鳥を捕まえたりして飢えをしのぎました。
百日あまりもの間、釈迦ヶ岳の山の中に身をかくしていた忍剣と伊那丸は、「もう甲州攻めの軍勢も引きあげただろう」と、駿河路へ向かって旅立ちました。
山道にある峠という峠には、徳川家のきびしい関所が設けられており、ふたりを探す取り調べは厳しさを極めていました。
それだけでなく、織田の領地側では、「伊那丸を捕らえてきた者には、五百貫のほうびを与える」というお触れの立て札があちこちに立っているといううわさでした。
さすがの忍剣も、これにはすっかり途方にくれてしまいました。
きのうまでは甲山の軍神といわれた武田信玄の孫・伊那丸も、いまや雨や露で汚れきった着替えすらない有様でした。
足はイバラに傷つけられて、痛々しく血がにじんでいました。
それでも、伊那丸は悲しい顔をひとつも見せませんでした。
幼い頃から受けていた快川和尚の教えと、祖父・信玄の血が、この少年の体のどこかにしっかりと流れていたのです。
「若さま、こうなってはもう仕方がありません。
相模の叔父さまのところへまいりまして、世の中の風向きが変わる時節が来るまで、お頼りすることにいたしましょう」
忍剣は、伊那丸のいじらしい姿を見ていると、胸が張り裂けそうになる思いでした。
そこで、ついに最後の手段を切り出したのです。
「小田原城の北条氏政どのは、若さまにとっては叔父君にあたる方です。
北条さまのところへ身を寄せれば、織田家も徳川家も手出しはできまいのです」
しかし、富士の裾野をまわって相模の国境へとやって来ると、無情な北条家でも同じように関所をもうけ、「武田の落武者が来たら片っ端から追い返せ」と厳しく命令してありました。
叔父であろうが肉親であろうが、滅びた国の血筋の者となれば一切受け入れないのが、戦国の世の冷たい掟でした。
忍剣もうらめし涙を飲みながら、ふたたびどこかの山奥へと引き返すよりほかに方法はありませんでした。
いまやふたりは完全に袋のネズミとなり、西へも東へも逃げる道はありませんでした。
昨日の夜は裾野の青すすきを布団がわりにして眠り、今朝はまだ霧の深いうちから、行くあてもなくトボトボと歩き出しました。
やがてその日も夕暮れとなり、ひとつの大きな湖のほとりに出ました。
このあたりは富士五湖といわれ、多くの湖が集まっている場所でした。
ふと見ると、湖のすぐ近くに「白旗の宮」と額を掲げた小さなお宮がありました。
「白旗の宮? ……」と、忍剣はそのお宮を見上げて、
「おお、甲斐といえば源氏、白旗といえばこれは私たちに縁のあるお宮です。
若さま、しばらくここでひと休みしていまいりましょう……」
と言って、お宮の縁側に腰を下ろしました。
「いや、わしは身軽だから疲れはしない。
おまえこそ、その重い鎧櫃(よろびつ)をかついでいるのだから、長い道のりでよっぽど疲れているだろう」
「なんの、これくらいの荷物など、忍剣の骨身にこたえはいたしませぬ。
ただ、たいせつなご宝物ですから、万が一のことがあってはならないと、そればかりが心配でございます」
「そうだな。
わしはこの湖水を見ていて、いいことを思いついたぞ」
「なんでござりますか」
「こうしてその櫃をかついで歩いているうちに、もし敵に見つかって奪われたら、もう二度と取り返しがつかない」
「それこそは、この忍剣にとりまして、もう生きてはいられぬ一大事でございます」
「だから――わしがせめて元服を迎える時節が来るまで、その宝物をこの白旗の宮にお預けしておこうではないか」
「とんでもないことでございます。
そんなことをしては、物騒このうえありません!」
「いや、お預けするといっても、お堂の中に置くのではない。
この湖の底に沈めておくのだ。
ちょうどここにある宮の石櫃(いしびつ)に入れ替えて、湖の底に沈めておけば、これほど安心なことはないのではないか?」
「はあ、なるほど!」と、忍剣も伊那丸の優れた知恵に感心しました。
ふたりはすぐに、お宮にあった石櫃に宝物を移し替え、一滴の水も染み込まないようにしっかりと閉じました。そして岸にあった一本の丸木をくりぬいた小舟にそれを載せ、忍剣がひとりで櫂(かい)をあやつりながら、湖の中央へと舟をすすめていきました。
伊那丸は陸に残って、岸から小舟を見送っていました。
真っ赤な夕日がきらきらと水面を照らし返し、舟はだんだんと湖の中心へ向かって小さくなっていきました。
「あっ――」
とその時、伊那丸は何かを目撃したのか、思わず叫び声をあげました。
どこから放たれたのか、一本の白い羽のついた矢が、湖の中心にいる忍剣をめがけてヒュッと飛んでいったのです!
――それに続いて、まるで雨や激しいあられのように、数十本の矢がバラバラと釣瓶(つるべ)落としのように一斉に射かけられました。
コメント