初級翻訳・神州天馬侠 第105話

吉川 英治

その時、加賀見忍剣は初めて破術の法を思い出し、散魔文の秘句を唱えながら、持っていた禅杖を振り上げ、「エイッ!」と水流を断ち切るように打ち下ろしました。
水面を打った法力ある禅杖により、サッと水が二つに割れたかと思うと、散魔文の破術を受けて狼狽した呂宋兵衛は、水の上を歩く術を失って真っ直ぐにかなたへ逃げ出し、一面に広がっていた濁流は、見る間に一抹の水蒸気となって空へ昇っていきました……。そして松並木の街道は、ふたたび元ののどかな朝の姿に戻ったのです。
まるで悪夢から覚めたようでした。ふと見ると、春の陽光がさんさんと木々の間から漏れて若草を輝かせ、鳥たちはのどかに声を張り上げて歌っています。
そればかりか、呂宋兵衛が水に浮かせて乗っていったはずの鎖駕籠は、一寸たりとも場所を変えず、元の場所に鎮座しているではありませんか。

四

呂宋兵衛が得意とする水術に惑わされて、彼を取り逃がしてしまったのは残念ですが、勝頼公の駕籠を取り戻せたことは、せめてもの救いであり、伊那丸の心を慰めるには十分でした。
「待て待て、忍剣。龍太郎も待て!」
伊那丸は、なおも憎き賊を追おうとする二人を押しとどめて言いました。
「今回、都へ参ったのは、何よりもまずお父上の危急をお救いするためだ。いまこうして駕籠を取り戻した以上、呂宋兵衛を討つのは今この時でなくともよい。さあ、一刻も早く駕籠の中からお救い申し上げて、小太郎山の砦へ戻ろうぞ」
「おっしゃる通りでございます。それこそが我らの大願、目標でありました」
「忍剣! 手を貸せ」
「はッ」
主従三人、ぞろぞろと駕籠のそばへ寄っていきました。ああ、去年の春、織田・徳川連合軍の襲撃を受けて天目山の露と消えたと聞いて以来、すでに一年という月日が流れました。
――いまこそ、亡き方とばかり思っていた、武田四郎勝頼公その人の姿を拝することができるのか。そう思うと、龍太郎も忍剣も思わず胸を震わせて大地にひざまずき、伊那丸もまだその姿を拝さないうちから、まつげに涙の露をいっぱいに溜めています。
一同は駕籠の前にピタリと両手をつくと、呼びかけました。
「あいや、駕籠におわす貴人の方、申し上げまする。われわれは武田家恩顧の者たち、ここにいるのは武田家のご次男、伊那丸さまでございます。ひそかに噂のあとを追い、遠き小太郎山の砦よりここまでお迎えに参りました。このうえはなにとぞ、もとの甲山にお帰りいただき、哀れ、甲斐源氏再興のために臥薪嘗胆している若君をはじめ、我ら一同の盟主となってくださいますよう――」「もし、それをご承知くださるならば、どうかここで久しぶりに、若君へご対面を願いたいのです」
誠意を込めて二人がそう言うと、
「うむ……」と駕籠の中から、かすかに頷く声がしました。
「さてはお許しいただけたのか……!」
龍太郎は忍剣と目配せしながら、おそるおそる歩み寄って駕籠の塗戸に手をかけ、
「若君、ご対面なされませ」
スーッと戸を開けると、中には紛れもなく一人の僧侶の姿が、網代笠を深くかぶってうつむき加減に乗っていました。
「おお、お父上でいらっしゃいましたか。
なんとお懐かしいことでしょう。
私は伊那丸でございます――天目山の合戦にも立ち会えず、むなしく生きながらえておりました。
お父上! お父上!」
ほとばしる激情! 我を忘れて駕籠の戸にすがりつき、僧侶の手を取ると、僧も黙然として手を取られ、ゆらりと駕籠の外に立ち上がりました。
「お父上! また敵の手が回らぬうちに、一刻も早くここを去ってお越しくださいませ。さあ、伊那丸がご案内いたします」
「どこへ? ……わしを連れて行くというのか」
「甲信駿三国の境、小太郎山の砦の奥へ。
――おお父上、そここそ山また山、自然の険しい城、難攻不落の地でございます。
お父上のご武運つたなく、ひとたびは織田・徳川のために亡びこそすれ、まだその深い山のいただきには、甲斐源氏の旗が一旒(いちりゅう)、秋の風を待ちわびて翻っておりまする」
「ああ、その秋はすでに去った――天の運行は去って二度と帰らず、還るのは百年、あるいは千年ものちのことか――」
「えっ、なんと仰るのです……父上!」
染衣の袖にすがりついて、ふと網代笠の下を仰ぎ見た伊那丸は、「あっ」と言って呆然と――ただ呆然としてその手を離し、こう言いました。
「父上とばかり思っていたが、あなたは鞍馬の果心居士ではないか」
それを聞いて龍太郎もびっくりして、
「やっ、老先生でいらっしゃいますか!?」
あまりのことに呆れ果てて、忍剣とともにただ顔を見合わせるばかり。
しばらくの間は、言葉も出ないほどでした。
「さぞかし驚いたであろう。
……しかし、わしが雷神の滝の孤岩の上に書き残しておいた通り、これもみな、前々からわかっていたことなのだよ。
おう、ご不審が晴れるように、いまその次第を話して聞かせよう。
若君も、まずそのあたりに腰を下ろされよ」
居士は悠々と、近くの石に腰を下ろしました。
そして、伊那丸へ向かって、
「御曹子(おんぞうし)よ」と重々しく呼びかけました。
「はい」と伊那丸は、老師の前に神妙に首を垂れて答えます。
「あなたは、甲斐源氏のたった一つの種――世にも尊い身分でありながら、危険を冒してお父上を求めに来られた。
その孝行の赤心、涙が出るほどでござる。
が、しかし――その勝頼公が世に生きているということは、果たして真実でござるか? あなたはそれを証明する確証を握っておいでか?」
「私には分からぬが、伝わるところによれば、父君は天目山にて討ち死にしたと見せかけて、実は裂石山の古寺に逃れて姿を変え、京都へ落ち延びたという噂……」
「さよう。
それが真実か虚伝かは、まだまだ深い謎でござるぞ。
確かに、この果心居士が知るところでも、呂宋兵衛の手にとらえられていた僧形の貴人は、勝頼公によく似ておった」
「おお、してその僧侶はどうなさいましたか。
また、居士はどうしてそのような姿をして、この鎖駕籠の中に入っておいででしたか」
「されば、実を言うと、その貴人の僧は、南蛮寺の武器倉に押し込められている間に、わしがそっと逃がしてやったのだ。
そして――その人の笠や衣をそのまま着て、わしがこの鎖駕籠に乗っていたというわけじゃ」
「おっ! では老先生、やはりその僧こそ、父の勝頼ではございませぬか」
「さあてな? ……その人が勝頼であるかないか、それは誰にもはっきりとは申されぬ」
「な、なぜでございます」
「武門を捨て、世を捨て、あらゆる恩愛や争闘の修羅界を捨てられた人の身の上でござるもの。
話すべきにあらず、また話して返らぬことでもある」
「や、や、や! ではこの伊那丸が、これほど心を砕いて武田家の再興を計っているのに、お父上はもう現世の争闘をお厭いあそばして、完全に心からの世捨て人となられたのですか」
「もし、御曹子――前にも言った通り、まだその僧が勝頼公か否か、はっきり分かっておらぬのに、そうご悲嘆なさっては困る。

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