初級翻訳・神州天馬侠 第83話

吉川 英治

「もし、伴天連さま」

きれいな侍女たちが三、四人、駕籠から降りて腰をかがめました。
伴天連に化けている呂宋兵衛と蚕婆は、もっともらしく祈祷の手を止めると、

「はい、何かご用でござりますかな」

「あの駕籠の中においでなされますのは、ご城主さまの奥方、小谷の方(おだにのかた)さまでいらっしゃいます」

「ああ、それはそれは。右大臣信長公の妹君であり、小谷の方さまとお噂はかねがね伺っておりました」

「奥方さまは、その昔、安土においでになった頃から、マリアさまを深く信仰していらっしゃいます。ついては、何かお祈祷のお願いがあるとのこと。ご迷惑でなければ、城内までお越しいただけませんでしょうか」

「お安いこと。すぐにもお供いたしましょう」

呂宋兵衛は、人知れず蚕婆に目配せして、聖僧気取りでうやうやしく小谷の方の駕籠につき従い、大手の橋を渡って城内へ入りました。
すると、多門の塀際ですれ違った一人の立派な武士がいました。

「おや?」

武士は伴天連の姿を見送ると、立ち止まりました。

「こりゃ不思議だ。今、奥方の供に加わっていったやつは、確かにいつぞや海賊船で別れた和田呂宋兵衛、そしてもう一人は裾野の蚕婆によく似たやつだ……。はて、妙なことだわい」

「ウーム、あの呂宋兵衛がこの城内に……伴天連になりすまして……蚕婆を連れて……こりゃ時節柄、油断がならん!」

従者だけを先に帰し、スタスタと再び曲輪(くるわ)へ引き返したのは、かつて裾野で鏃師(やじりし)をしていた鼻かけ卜斎――いまはこの城の軍師として頼られている上部八風斎(うわべはっぷうさい)でした。

三

足羽九十九橋(あすわつくもばし)を足元に見下ろしてそびえ立つ北ノ庄の城は、北国一の荒大名、鬼柴田勝家がいる砦です。
塁や濠は宏大で、天守や楼閣の立派さは、さすがに「秀吉を成り上がり者と見下し、大徳寺では筑前守(秀吉)に足をもませた」と噂されるだけのことはあります。

「憎らしい猿面め、ウーム、一泡吹かせてやらねばならん」

本丸の上段、毛皮の敷物にどっかと腰を下ろした修理亮勝家は、その年、五十三歳の老将です。
今夜も、岐阜の侍従信孝からの急ぎの書状を読み終えて、憤怒の表情をあらわにしていました。

評定の間の灯りは煌々と照らされ、席には一族の権六勝敏(かつとし)、同じく勝豊(かつとよ)、徳山則秀(のりひで)、不破光治(みつはる)、小島若狭守(わかさのかみ)、毛受勝介(めんじょうかつすけ)、佐久間玄蕃允(げんばのじょう)など、並ぶ者のない北国衆がズラリと並んで座っていました。

「この勝家が冬ごもりの間を、鬼のいぬ間と思うて、猿面秀吉めが好き勝手な振る舞いをしおって。この書状の様子では、疾(と)く佐和山を落とし入れ、長浜の城まで手をだしてきたらしい。ウム、もう我慢している場合ではない。若狭! 若狭守!」

「はッ」

「そちはすぐに天守へ上がって、陣触れの貝を吹け」

「はッ」

「勝敏、勝豊! また玄蕃允! その方どもは先陣に立って真っ直ぐに近江へ向かえ。すぐにじゃぞ……」

「君! しばらくお待ちくだされ!」

「なんだ、毛受勝介。そちも一陣の先駆けを望むか」

「いや、もってのほか――」

と、にじり出た勝介は、少し顔色を変えて、キッとこう言いました。

「先ほど、軍師の八風斎殿が列席の折には、秀吉退治のご出陣は来春の雪解けと同時に行うことに決したではございませぬか」

「控えろ、それはまだ信孝公の御書が届く前じゃ。秀吉の独断がここまでとは知らなかったからじゃ」

「ご立腹はもっともですが、時は今、十二月の真冬。北国街道の雪は高く、軍馬の進路など思いもよりませぬ」

「黙れ、勝介。折から今年は雪が少ない。このくらいの天候ならば、柳ヶ瀬越えもなんのその、一挙に長浜を取り返して猿めに一泡吹かせるくらい、なんの造作もないわ」

「仰せながら、ひとたび軍旅を遠く走らせて、木ノ芽峠(このめとうげ)や賤ヶ岳(しずがたけ)の険路を吹雪に閉じ込められるときは、それこそ腹背の難儀。軍馬は凍え、兵糧は続かず、二度とこの北ノ庄へご凱旋はなりますまい」

「ウーム……」

勝家も愚将ではありません。まして分別も十分な年齢です。
理屈では分かっているものの、やり場のない怒気がうめきとなって口から漏れました。「一理ある。しかし……」
と、勝家は少し落ち着きを取り戻し、
「来春を待つとして、ほかに何かよい策はあるか」
と念を押しました。
「ございます。それは、裾野から帰参された上部八風斎どのの策です。あの方は一月あまり屋敷にこもり、苦心の末に秀吉を袋叩きにする奇陣や必勝の布陣、軍旅の準備に至るまでを書き記し、家老の徳山どのに渡しておられます」
「そんなものがあったか。伊那丸を味方につけ、甲州や駿河に根を張ろうとしていた八風斎だが、うまくいかず帰参してからはめったに顔を見せぬと思っていた。すでに秀吉攻略の奇陣を策していたのか。どれ、一見いたそう」
勝家はすっかり機嫌を直し、徳山則秀が取り出した書類や図面に目をとおし、時には小声で何やら密謀をささやいていました。

すると、この夜の闇の中で、奥の曲輪(くるわ)の方から、にわかに「ジャラン!」と妖しい鐘の音が響き渡りました。
「なんじゃ」
折も折なので、一同は思わずガバッと顔を上げました。
勝家もその音を聞きとがめて、
「南蛮寺で聞くような、忌まわしい鐘の音色だ。奥の局(つぼね)で鳴っているらしいが、やかましいゆえ、止めてまいれ」
「はっ」
と気転を利かせて立った小姓の藤巻石弥(ふじまきせきや)が廊下へ出ると、そこには何者か、評定の間の袖部屋にじっとしゃがみ込んでいる黒衣の人物がいました。
「間諜(スパイ)か!」
大声で叫んで、ダッと組み付きました。
奮然と向かってくるかと思いきや、相手は案外あっけなくグズグズとくじけてしまったので、石弥もあっけにとられました。
「なに、間諜が入り込んでいたと?」
勝家をはじめ、玄蕃允、若狭守らは、それぞれ燭台をかざして外へ出てきました。
「なんじゃ、そちは伴天連(バテレン)……しかも老婆ではないか」
「はい、はい……どうかお許しくださいませ」
黒い影は、竿で叩き落とされたコウモリのようにおののいていました。
毛受勝介(めんじょうかつすけ)が鋭く睨んで、
「貴様、たった今の密議を、ここで聞きおったな!」
「めっそうもない。わたくしは神さまに仕える修道士でございます……戦のご評議などを立ち聞きして何になりましょう」
「その修道士が、なぜこのような場所へ入り込んだのだ。婆、嘘をつくと八つ裂きにするぞ」
「奥方さまのご頼みで、お祈祷に上がりました……はい、三人の姫君さまが、そろいもそろってひどい熱を出され……そのご平癒を神さまにお祈りしてくれとのご命令を受けて参りました」
「ほ、なるほど……」
勝家の表情が少し和らぎました。
「幼い姫たちが、このあいだから風邪に悩んでいる。奥も今日はそれで祈祷に参ったのだ。あれは昔からその宗門にも縁がある」
「まったく、入口を間違えまして……」
「石弥、この修道士の婆を奥の局へ連れて行ってやれ。

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