すぐに追いつかれそうになったのを見て、蛾次郎は驚き、高くそびえる一本の樫の木へ、猿のようにシュルシュルとよじ登りました。
木登りは、竹童も得意とするところです。
蛾次郎が猿なら、竹童はムササビのように敏捷でした。ピョンと枝へ飛びつくと、もう蛾次郎の踵(かかと)をつかまえました。
「わッ!」と蛾次郎。
あぶなく滑り落ちそうになったところを、足を蹴り放して、ザワザワと横枝へ這い出しました。
人の重みで樫の枝が弓なりになって崖の方へしなります。そのすぐ後から、また竹童が長い腕を伸ばしてきました。
「南無三(なむさん)!」
蛾次郎はポンと枝から崖へ飛び移ると、一目散に天ヶ丘(あまがおか)の頂上へ駆け上がりました。
(鷲だ、鷲だ!)
こんな時は、足の届かない地面を離れてしまうのが一番安全です。そう考えた蛾次郎は、いつぞやクロをつないでおいた松の木の下まで、無我夢中で駆け上がりました。すると鷲は、人の足音を聞きつけて、羽ばたく音を高々と立てています。
「おお、いたな! ありがてえ」
息をはずませて駆け寄り、汗を拭く間もなく、クロの足に縛り付けてある鎖をガチャガチャと解き始めました。
だが、意地悪なことに、急げば急ぐほど、鎖は笹や枯れ草に絡まり、なかなか結び目が解けません。
そうこうしている間に、鞍馬の竹童は、ヒョイと見失った蛾次郎の姿を血眼で探し回り、もうすぐそこまで登ってきていました。
「おお、クロがいた! 俺のクロだ!」
竹童は思わず叫びました。まるで、暗闇で見失った肉親の姿でも見つけたかのような叫びです。
――ちょうどその時でした。
南蛮寺の奥の方から、「ジャン、ジャン、ジャン!」と妖しい響きを帯びた鐘の音――そして、一種の凄味を漂わせた法螺貝(ほらがい)の音が響いてきました。
ハッとして振り返ると同時に、丘の頂上にある南向きの朱門が、まるで魔王が口を開いたかのように、ギーイと大きく押し開かれました。
同時に――
その朱門の中から、ワラワラとおびただしい数の浪人武者が溢れ出してきました。黒装束に小具足をつけた者、鎖襦袢(くさりじゅばん)をガッシリと着込んだ者、わらじに野袴(のばかま)姿で朱塗りの鞘を差した者など、異様な出で立ちで、その数は五十人あまり。
「百鬼夜行」という言葉がありますが、これは眩しい朝の光を浴びているだけに、それぞれの装束や武器が槍、太刀、掛け矢、薙刀(なぎなた)、鉄弓、鎖鎌と、見れば見るほど十人十色で、異様さが際立っていました。
「それッ、列を乱すな! 駕籠(かご)の脇へつけ、駕籠の脇へ!」
その中で、ひとりこう言って手を振り上げた者がいます。間違いなく、紅毛黒衣の怪人、和田呂宋兵衛(わだ・ろそべえ)です。
胸に垂らした黄金の鎖と銀色の十字架が、朝陽を浴びてギラギラと光っています。
「おう!」
と答えて一つの駕籠の周りを警護する者たちを見ると、同じ黒布をかぶり黒衣をまとった吹針(ふきばり)の蚕婆(さんば)を筆頭に、呂宋兵衛の懐刀である丹羽昌仙、早足の燕作など、いかにも腕の立ちそうな者ばかりが、ひしひしと足並みを揃えていました。
そして、まるで深山(みやま)の狼が群れをなして里へ出るかのように、列を作って天ヶ丘の石段を下り始めました。
中にはさんで運ばれる一挺の鎖駕籠――これこそ、桑名の羽柴秀吉のもとへ送ろうとしている貴人の僧形、武田勝頼が幽閉されているものに違いありません。
「やッ! 呂宋兵衛が行く、勝頼さまのお駕籠が行く!」
それを見るや、竹童は思いました。寒松院(かんしょういん)の並木に待ち伏せしている伊那丸やそのほかの仲間たちに、一刻も早くこのことを合図して伝えねばならない、と。
――とはいえ。
狼煙(のろし)の準備をしている間に、すぐそこにいる蛾次郎めが、クロの背を借りて空へ逃げ去ってしまうでしょう。
蛾次郎を見逃すくらいは、虫ケラを相手にするようなものですが、今ここで、せっかく見つけたクロと再び別れてしまうのは、どうしても忍びがたいことでした。いつまた、それが蛾次郎の手から自分のもとへ戻ってくる機会があるかわかりません。
かといって、それにグズグズ手間取っている間に、呂宋兵衛の一族が天ヶ丘から道を変えて勝頼公を遠く護送してしまったら、それこそ伊那丸さまに対して取り返しのつかない不忠不義! 腹を切ってお詫びしても、その大罪を償うには値しません。
「ああ、困った!」
竹童は髪の毛をかきむしり、迷いに迷いました。
(合図か? 鷲か? 合図か? 鷲か?)
どちらへ身を向けるべきか。
「おお、クロを……!」
竹童はついに決断し、蛾次郎のいるほうへ、征矢(そや)のごとく飛び出しました。
クロこそは、人間が持つどんなものにも匹敵できない飛行の武器、まさに「生ける武器」なのですから。クロさえ蛾次郎の手から取り返せば、のろしをあげるまでもなく、あの偉大な翼で一はたきして、寒松院の並木にいる味方へこの様子を知らせに飛んでいくこともできる。
そのうえ、たとえ呂宋兵衛がどこをどう逃げ回っても、空からそれを見下ろして追いかけることだってできるというものだ。
――こう竹童は考えた。
しかし、その時すでに蛾次郎は、鎖を解いて鷲の背へフワリと乗っていたのである。
「あッ、待て!」
飛びついていった竹童と、地上を離れた大鷲の動きは、そのときほとんど同時であった。
「くそうッ」と蛾次郎は鷲の上から竹を振り回し、竹童の肩をピシーッとなぐった。
「ちイッ……」と痛みをこらえながら、竹童は必死につかんだ蛾次郎の足を離さず、大鷲の翼がサッと大地を打って舞い上がるのと一緒に、彼も蛾次郎とともに無二無三に、鷲の背中へかじりついてしまった……。
二
かくて巨大な黒鷲の背には、いまや互いに敵であり仇である二人の少年が、よりによって飛行する大空のうえ、ひとつの翼の上に乗り合ってしまった。
だが、しかし――鷲そのものは、蛾次郎を敵とも思わず、また竹童を仇とも思う様子もない。
軽々と二人の少年を背に乗せて、その悠々たる姿を南蛮寺の空へと舞い上がらせた。
おお、見る間に下界は遠くなる――遠くなる――。
南蛮寺の屋根、天ヶ丘一帯、さらに四方の山川まで、たちまち箱庭を見るようにすぐ目の下へ展開され、それがゆるい渦巻きのように巻いて流れていく……。
蹴落とされては大変と、泣き虫の蛾次郎は歯を食いしばって、鷲の首の毛にしがみついた。
と――同じように、地上とはちがって大空の風を切り裂いてゆく鷲の背中にいては、さすがの竹童も手が離せないので、目の前に乗り合わせている蛾次郎をどうすることもできないのである。
それはいいが、ここに困ったことがある。一人ならば自由な方角へ飛ばすこともできるのだが、こうして蛾次郎と相乗りになってしまったために、クロはただクロ自身の意志で、勝手なほうへさっさつとして飛んでいってしまうのだ。
それでは伊那丸たちへ合図を送るたよりがないので、この間も竹童の腹の中は、ひっくり返るような心配でいっぱいだった。
ピューッ、ピューッと顔をかすめていく風の合間に、はるか下を見れば、もう和田呂宋兵衛一行の列は蟻のように小さく見えながら、天ヶ丘の石段を降りきっている。
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