初級翻訳・神州天馬侠 第88話

吉川 英治

その時、ギュッとひっつかまえてやればいい」

「ああ、おいらもそう思って、北国街道から雪の降る橡ノ木峠を越えて、この京都まで来たけれど……まだ鷲の影さえ見当たらないんだ」

「そう短気なことを言ったって無理だよ。物事には何でも辛抱が肝心だからな……おや、それはそうと竹童さん、お前はたいそう立派な刀をさしているじゃないか」

そう言うと、燕作はソロソロとずる賢い本性をあらわし、馴れ馴れしく竹童の帯びている「般若丸」の鍔や目貫をなでまわしながら言った。

「こりゃ大したものだ。目貫の獅子は本金だし、鍔は後藤祐乗の作らしいな。うーむ……どうだい竹童さん、一つ相談があるんだが、その刀を俺に四、五日貸してくれないか」

「えっ!」

竹童は図々しい相手の言葉にびっくりして言った。

「とんでもない! この刀は貸すどころか、ちょっとでも肌身を離すことのできない大事な品物なんだぞ」

「そんな意地の悪いことを言うなよ。実は裾野を落ちてからというもの、着の身着のままで路銀も資本もなく、何もできずに困っているんだ。後生だから貸してくれ。二、三百両には売れるだろうから、そうしたらお前にも小判を十枚や二十枚は分けてやるぜ」

「馬鹿なことを言うと承知しないぞ!」

「オヤ、このちくしょう!」

燕作はグッと腕をまくり上げて立ち上がり、竹童の胸ぐらをつかんだ。

「さっきから下手にでていれば調子に乗りやがって。素直に渡さないとまた痛い目に会わせるぞ、覚悟しておけ!」

「おのれ、さてはやさしく言えば騙せると思って、はじめからこの刀を奪うつもりだったんだな!」

「知れたことよ。誰がてめえみたいな山猿に、ただペコペコ頭を下げるもんか!」

「ちぇっ、そう聞けばなおのこと、命にかけてもこの般若丸は渡さないぞ!」

「命知らずめ、後悔するなよ!」

燕作は両手で竹童の喉を締め上げ、足払いをかけてドンと地面にねじ倒した。ところが倒れたとたん、竹童がすかさず下から般若丸を抜き放ち、その冷たい光を横ざまに払った。

「おっと、危ねえ!」

一足飛びに切っ先をかわして、燕作も自分の脇差を抜き放った。陽に輝く刀を振りかざして、ふたたび「タタッ」と斬り込んでくる。竹童はすばやく跳ねのいて「チャリン!」と相手の刃を弾き飛ばした。

しかし、それは剣道の技ではなく、いつも使い慣れている棒術の呼吸だった。鞍馬の奥を下りてから今日まで、何度も生死の境を越えてきたが、本物の刀を手に取り、敵と刃を交えるのは竹童にとってこれが初めての経験である。なんとも言えない恐ろしさがある一方で、なんとも言えない爽快な気分と、必死の力が手足にも刀にもみなぎってくるのを感じた。

四

「この山猿め、小賢しい真似をしやがるな」

燕作は竹童を見くびりぬいて上段に構え、隙をねらって竹童の手元へパッと斬りつけた。鞍馬の竹童、剣道の流儀は知らぬが、度胸だけは山ほどある。

「なにをっ!」

と叫ぶやいなや、名刀・般若丸を棒と同じ感覚で振りかぶり、燕作の刀へ向かってガチャッと叩きつけた。

耐えられるはずがない。二筋の白虹が火花を散らしたかと思うと、燕作の鈍刀はパキンと折れ、氷のような刃の破片がクルクルと空へ舞い上がった。「しまった!」
燕作は悲鳴をあげて逃げ出そうとしましたが、追いすがった竹童がとどめの一撃を加えようとした、その時です。サラサラと葉を揺らす柳の梢から、雨でもなく、露でもなく、ただの光でもない、音のない銀色の風が吹き荒れました。
おお、無数の針です!
光線を浴びせるようにピラピラと降り注ぎ、竹童の目、耳、そして毛穴という毛穴へ、容赦なく突き刺さりました。
「ううっ……」
息も絶え絶えの、悶絶するような一声。
さすがに気丈な怪童子も、その瞬間、急に辺りが真っ暗になったかのような感覚に襲われ、名刀・般若丸を振り上げたまま、体を弓のように反らせて、ドーンと後ろへ倒れ込んでしまいました。

「ざまあみろ。素直に渡しておけばいいものを、言った通り痛い目を見たな」
せせら笑いながら戻ってきた燕作は、歯ぎしりをする竹童の胸に足をかけて踏みつけ、手からこぼれた般若丸を力任せにひったくりました。
そして、ニヤリと刃を眺めていた、その時です。不意に何者かが、燕作の襟首をガシッとつかみました。
「あッ、何をするんだ!」
言う間もありませんでした。
フワリと体が宙に浮いたかと思うと、燕作は風のように投げ飛ばされ、堤の若草の上に二、三間(約四、五メートル)先まで転がされて、ドスンと地面に叩きつけられました。
「あいたっ……」
と跳ね起きてみると、いつの間に現れたのか、網代笠(あじろがさ)を深くかぶった一人の旅僧が立っています。左手に鉄鉢(てっぱち)を持ち、右の拳を振り上げて、
「こら、このような少年を捕らえて何をするつもりだ」
と、睨みつけています。今にも飛びかかってきそうな気迫です。
「おや、この乞食坊主め! よくも生意気な手出しをしてくれたな!」
奪い取った般若丸を構え直して燕作が斬りかかると、旅僧はやすやすと体をかわし、燕作の手元へ向かって、持っていた小手をピシリと打ち込みました。
燕作は激しく手首を打たれて刀を落としてしまいました。慌てて拾おうとすると、再び「ヤッ!」という鋭い気合いとともに、今度は堤の下へと突き落とされました。
ズルズルと滑り落ちた燕作でしたが、まだ懲りずに起き上がり、仕返しをしてやろうと見上げました。すると、さっきまで一人だと思っていた旅僧のほかに、同じ姿をした行脚僧(あんぎゃそう)がもう二人、すぐそこに立っていました。
「あッ、いけねえ!」
それを見るや否や、燕作は一目散に堤の下を縫うようにして逃げ出しました。
そのあまりに情けない後ろ姿を見て、二人の僧は顔を見合わせ、
「ははははは」
と朗らかに笑い合いました。

すると、堤の上から先ほどの僧が降りてきて、燕作が捨てていった般若丸を拾い上げ、
「この太刀、見覚えはございませんか……」
と、膝をついて、背の高いもう一人の僧へ差し出しました。
網代笠に隠れて顔立ちはうかがえませんが、丸ぐけの紐を結んだ口元は白く、どこか凛々しい雰囲気のその行脚僧は、衣の袖で陽を遮りながら、じっと刃を見つめていました。やがて、極めて低い声で、
「さてさて、珍しい刀を見ることだ」
と感慨深げにつぶやきました。
「見るも懐かしいことである。これは紛れもなく、伊那丸の守り刀……」
「私も、確かにその通りだと存じますが」
「尽きぬ奇縁じゃ……思えば不思議な刀と、我が身の巡り合わせよ」
「仰る通りにございます。あそこに倒れている少年を介抱して、少し事情を尋ねてみましょうか」
「いや、今は世を忍ぶ身だ。この刀はそっと、少年の鞘に戻しておいたほうがよい」
「しかし、何やら苦しんでいるようです。このまま見捨てて行くのは、あまりに不憫(ふびん)ではございませんか」
「おお、では、河原の水でも汲んできてやってくれ。ただし、夢にも刀のことについては聞くなよ。訊けば、こちらの素性も人に感づかれることになる」
「承知いたしました……」
一人の僧が河原へ下りていく間、もう一人は竹童を抱き起こして活を入れ、口に水をふくませました。

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