しかし、言葉は一切かけず、そのままスタスタと通り過ぎていきました。
「あいた……どなたですか……ありがとうございました。本当に、ありがとうございました……」
竹童は遠ざかる足音に向かって何度も礼を言いましたが、両手で顔を押さえているため、どんな人物が助けてくれたのか確認することはできませんでした。
顔を覆う指の間からは、赤い血の筋がタラタラと流れています。
「あいたっ……」
と、片手で探るようにして河原の水音をたどり、竹童は岩の隙間から首を伸ばしました。ザアザアと流れる瀬で血を洗い、顔を冷やし、目や髪に刺さった針を一本ずつ抜いては、何度も目を洗いました。
その間、先ほどまで燕作がいた場所の柳の梢から、ヒラリと飛び降りた一人の女がいました。
女といっても、それはお婆さんです。修道士のような服をまとった「蚕婆(かいこばば)」でした。
黒い頭巾の中から梟のような目をギョロリとさせ、柳の陰に遠ざかっていく三つの網代笠を見送ると、やがて「ふむ」と一人で頷きました。いつの間にか河原はとっぷりと暮れていました。
青く不気味な妖星が、四条の水面に映し出されています。
伊勢路で戦があるせいか、日が沈んだ後も東の空だけはほの赤く染まっていました。
「あいつだ! 間違いなくあいつに違いない!」
そう叫んだ蚕婆は、妖霊星をじっと睨みつけ、しばらく首をかしげていましたが、やがて黒い蝶が飛ぶように、そこからヒラヒラと走り出しました。
南蛮寺百鬼夜行
一
空には美しい金剛雲が浮かび、朱雀の原には、観世水(かんぜみず)の小さな流れが、ゆるやかな波紋を描いています。
月は出ていますが、月食のような春の宵――あたりに立ち込める夜霞のせいで、家も灯りも野原も水辺も、ぼんやりと霞んだ夜でした。
いつの間に現れたのか、菊亭右大臣家の釣り橋にたたずんでいた三人連れの旅僧は、人目をはばかるように、ホトホトと裏門を叩いていました。
「はて、まだ返事がありませんが、どうしたものか」
やがて、当惑したようなつぶやきが聞こえました。
「前もって密書は差し上げてあるのですから、館の者にはとっくに伝わっているはずですが……」
「あまり目立たないようにしているせいか、まだ門番の侍が気づいていないのでしょう。
どれ……」
そう言って一人が試しに閂(かんぬき)をガタガタと揺らしていると、今度は合図が届いたのか、奥から聞こえていた小鼓の音がピタリと止み、同時に足音がこちらへ近づいてきました。
ギイ……と内側から裏門が開きました。
斜めに、紙燭(ししょく)の黄色い明かりが差し込みます。
その明かりに照らされた僧たちの姿を見て、顔を出した公卿侍は、
「や! これは?」
と驚いた様子で、すぐにフッと紙燭を吹き消してしまいました。
「意外にお早いお着きで。お館様もお待ちかねでございます。
さあ、こちらへ……」
まるで貴人の忍びの旅を迎えるかのように、この上なく丁重に、門の端で膝をつきました。
網代笠をかぶった三人の僧は、黙々とその礼を受け、案内されるままに、菊亭殿の奥へとスーッと姿を消しました。
再び閉ざされた裏門は、秘密を飲み込んで何も語らない口のように、固く封じられました。
夜が更けるにつれて、草花からは甘い香りが立ち込め、あとは釣り橋の紅梅が、築地をめぐる水の上へ、ヒラヒラと花びらを黒く散りこぼしているばかりでした。
すると、その濠(ほり)際にある木陰から、スッと離れる人影がありました。
黒い布をかぶった妖婆です。
言うまでもなく、それは加茂の堤から三人の僧を尾行してきた蚕婆でした。
修道士のような黒い姿が、朧月夜の大地に細長く影を落としています。
婆はヒラヒラと釣り橋のそばまで来ると、固く閉ざされた裏門を見回し、やがて得意そうに「ヒヒヒヒヒヒヒヒ」と、一人で笑い声を漏らしました。
「あれだ、あれだ。やっぱりわしの目に狂いはなかったぞよ。
あの三人の僧のうちの一人は間違いなく武田勝頼、あとの二人は家来であろう。
うまく姿を変えて天目山から逃げてはきたが、もうこの婆の目にとまったからには運の尽き……。
少しでも早く、呂宋兵衛(るそんべえ)さまへこのことを知らせなければならないが、迂闊にここを離れて、また逃げられたら二兎を追う者は一兎をも得ずじゃ。
ええい、あの半間の燕作のやつ、一体どこへ行ってしまったのだろう」
ぶつぶつと文句を言いながら、濠の周りを行ったり来たりしていると、向こうから足を速めてきた男が、ひょいと木を盾にして、
「誰だ! そこにいるのは!」
と、油断のない目を光らせました。
「おや、お前は燕作じゃないか」
「なんだ、婆さん。お前だったのか」
声を聞いて安心した燕作は、足早に木のそばを離れ、蚕婆の方へとのそのそと寄ってきました。
「どうしたんだい。半間(はんま)にもほどがあるじゃないか(※のろまという意味)」
と婆は燕作を息子のように叱りつけ、
「竹童のような小僧には斬りまくられ、旅僧に睨まれればすぐ逃げ出すなんて、いくら町人とはいえ、あまりに度胸がなさすぎるね」
「婆さん、婆さん、そうガミガミと言いなさんな。
あれでも燕作なりに精一杯やったつもりなんだが、なにしろ竹童のやつが必死に食ってかかってきたので、少し面食らったというものさ。
だが、お前が木の上から例の針を吹いてくれたので、大助かりだったぜ」
「そうでもなけりゃ、お前さんはあんな小さな者のために、般若丸(はんにゃまる)の試し斬りにされていたところだよ」
「まったく! あいつは鷲乗りの名人だとは思ったが、剣術まであんなに上手だとは、夢にも思わなかった」
「なに、竹童は剣術なんてちっとも知っちゃいないのさ。お前の方が弱すぎるんだよ。
だがまあ、そんなことはもうどうでもいい。燕作さんや、一大事が起きたよ」
「え? また忙しくなるのかい」
「用を頼みもしないうちから、そんなに嫌な顔をするんじゃないよ」「お互いにこれが首尾よくいけば、呂宋兵衛(るそんべえ)さまも一国一城の主となり、わたしや、おまえも秀吉さまからウンとご褒美にありつけるんじゃないか。しっかりしなくっちゃいけないよ」
「合点合点。ところでなんだい、その一大事とは」
「それはね……」
婆はギョロリと館のほうへ目を配ってから、燕作(えんさく)のそばへすりよって、その耳へ口をつけてなにやらひそひそとささやきだした。
しばらく、目を白黒させて聞いていた燕作。
「えッ、じゃさっきの旅僧が、天目山(てんもくざん)から逃げてきた勝頼(かつより)だったのか」
「しッ……」
その素頓狂(すとんきょう)な声をおさえつけて、
「わたしはここに見張っているから、はやくこのことを呂宋兵衛さまに知らせてきておくれ。こんな役目はおまえさんにかぎるのだから」
「よしきた! おれの足なら一足とびだ」
「そして、すぐに手配をまわすようにね」
「おッと心得た!」
いうが早いか燕作は、朱雀(すざく)の原をななめに切って、お手のものの韋駄天(いだてん)ばしり。どこへ駆けたか、たちまち、姿は朧(おぼろ)の末にかくれてしまう。
あとにのこった蚕婆(かいこばば)は、黒い袖を頭からかぶって、釣り橋のかげにピッタリと身をひそめている。
コメント