「あッ――」
と、あやうく鉄杖で胴を二つに断たれそうになった佐分利五郎次は、井戸の縁から五、六尺とびのいて、きっ!と見れば、そこにいたのは鎧武者ではなく、黒の染衣を軽やかに着こなし、鼠色の手甲脚絆をつけた骨太い若僧。
いま、血塗られた鉄杖をしごき直して、ふたたび、らんらんと輝く目をこちらへ射向けてくる様子でした。「さてはこいつが、伊那丸の配下の中でも、怪力ナンバーワンと言われた加賀見忍剣(かがみ にんけん)だな……」
五郎次はブルッと身震いしましたが、すでに空井戸への逃げ道は断たれ、四方八方を敵に囲まれてしまいました。もはや助かる術はないと覚悟を決め、いきなり陣刀(じんがたな)をギラリと抜き放ちました。
「おお、そこにいるのは加賀見忍剣と見たが、見間違いか。俺は元・穴山梅雪(あなやま ばいせつ)が四天王のひとり、佐分利五郎次(さぶり ごろうじ)だ! 貴様のその法師首を剣先にかけて、亡き主君・梅雪公の供養にしてくれる。一騎打ちの作法通り、他人は入れずに勝負しろ!」
窮鼠(きゅうそ)猫を噛むとはこのことでしょう。捨て鉢になった怒号を響かせ、勇ましく名乗りを上げました。
忍剣はそれを聞くと、かえって鉄杖(てつじょう)の力をゆるめ、朗らかに笑って言い放ちました。
「はははは! さては貴様、悪入道(あくにゅうどう)の遺臣であったか。主人の梅雪がすでに無残な骸(むくろ)を裾野にさらして果てたというのに、まだ命が惜しくて呂宋兵衛(ろそんべえ)の手下に従っているとは、恥知らずめ。いでよ、真の武門を輝かせる伊那丸さまの御内人(みうちびと)、加賀見忍剣が天に代わって成敗してくれる!」
「ほざくな、痩せ法師! 鬼神と言われたこの五郎次の陣刀、受けられるものなら受けてみろ!」
「小僧! まだ忍剣の鉄杖の味を知らぬようだな」
「うぬ、その舌の根を!」
そう叫びながら佐分利五郎次は、三日月のような大刀を真っ向にかざし、加賀見忍剣の脳天めがけて斬りかかりました。
「おお」
忍剣は悠々と右にかわし、サッと鉄杖を寸のび(少しだけ)伸ばして横に打ち据えました。
「あなッ!」と思う間もなく、佐分利もなかなかの強者。ポンと飛び上がって空間をすくわせると、「ウム、えいッ!」と気合を込めて、陣刀に火花を散らしながら斬りかかります。
パキン! パキン! と二度三度、忍剣の鉄杖が舞って受けたかと思うと、佐分利の大刀はまるで氷のかけらが飛び散るように三つに折れ、鍔(つば)だけが手に残りました。
「仕損じた!」と悟ったのか、佐分利五郎次は折れた刀をブンと忍剣の顔面に投げつけると、踵(きびす)を返して一目散に逃げ出しました。
しかし、その時です。
「えーいッ!」
と屋根の上から響く気合。屋根の廂(ひさし)から斜め下に向かって、ピューッと一本の朱槍(しゅやり)が走りました。それが逃げる佐分利の背中から胸板を貫き、哀れ、笑止なことに、彼はその姿のまま欅(けやき)の幹に縫い付けられてしまいました。
三
「何者だ?」
鉄杖を収めて忍剣が廂の上を見上げると、声に応えてひとりの壮漢が、「巽小文治(たつみ こぶんじ)」と名乗りながら、ひらりと上から飛び降りてきました。
「なんだ、小文治殿か。余計なことをする男だ」
「ですが、あやうく逃げられそうだったもので」
「誰がこんな弱武者一匹、鉄杖の先から逃がすものか」
「早まって、失礼いたしました」
「いや、何も謝ることはない」
忍剣は苦笑して、先に打ち倒した黒衣の影武者を覗き込みましたが、呂宋兵衛の偽物だとわかって舌打ちをしました。小文治は敵を串刺しにしていた槍を大樹の幹から引き抜き、穂先の刃こぼれをちょっと確認しました。
「して、小文治殿。木隠(こがくれ)や山県(やまがた)たちはどうしただろうか」
「龍太郎殿は表口から奥の間へ入り、呂宋兵衛の行方を尋ねております。蔦之助(つたのすけ)殿は、弓組を四町四方に伏せて、彼らの逃げ道を塞いでおります」
「ウム。そこまで手配が整っていれば、いかに神変自在な呂宋兵衛でも、もう袋のネズミ同然、ここから逃れることはできまい。だが……この井戸はどうやら空井戸らしい。念のためにこうしてやろう」
法衣の袖をまくり上げた忍剣は、一抱えもある庭石を持ち上げると、ドーンと井戸の底へ放り込みました。それを合図に、あとから駆けつけてきた部下の兵たちも、めいめい石を運んで投げ込んだので、見る間に井戸は完全に石で埋まってしまいました。
そこへ木隠龍太郎が家の中から姿を現して言いました。
「おお、ご両所、ここにいたか」
「やあ、龍太郎殿。呂宋兵衛の在所(ありか)は?」
「不思議なことに、一向に行方が知れぬ。どうやら、すでに風を食らって逃げ失せたのではないかと思われる」
「しかし、この家の四方は二重三重に取り囲んである。彼らが忍び出す隙間などないはずだが」
「どこかに間道(かんどう)らしい穴口でもあるのではないか?」
「それも私が手を分けて探させたが、ここにあった空井戸がひとつあるばかりだ」
「なに、空井戸だと?」
龍太郎が飛び降りてきて言いました。
「ウム、こりゃ怪しい。どこかへ通じる間道に違いない。中へ入って確かめてみよう」
「いや、念のために、ただいま私が石埋めにしてしまった」
忍剣はしたり顔でしたが、龍太郎は地団駄を踏んで悔しがりました。
もし呂宋兵衛や敵の首謀者がこの穴から逃走したのであれば、この空井戸を塞いでしまったことで、どこから彼らを追跡すればいいのか、どこへ兵を回せばいいのか、まったく自ら手がかりの道を断ち切ってしまったことになると憤慨したのです。その言葉通り、忍剣もすっかり後悔して、しばらく黙り込んでしまいました。
すると、はるか北方の森のほうから、とぎれとぎれに笛の音が響いてきました。
――おお、それは、幻の陣を敷いて気配を消していた咲耶子が、前もって打ち合わせておいた合図の笛です。
「それ、咲耶子どのの笛が呼んでいる――」
まるで生き返ったように、加賀見忍剣、巽小文治、木隠龍太郎の三人は、笛の音をたどって走り出しました。すると、他の部下たちも波にさらわれる木の葉のように、音もなく気配もなく、渦の中心へと駆け集まっていきます。
城や砦の間道とは違って、豪農の家にある空井戸の横穴は、戦時の財宝を隠すか、家族が逃げるための準備に過ぎません。ですから、もともと二里も三里も遠くへ続いているはずがありません。
呂宋兵衛たち五人が、わずか二、三丁の暗闇を這い抜けて、ガサガサと星明かりの下に姿を現したのは、黒百合谷の中腹でした。上を見上げれば、例の多宝塔がある施無畏寺の境内があり、下には神代川(かみしろがわ)と呼ぶ渓流が、ゴーッと激しい水音を響かせています。
「道に迷ったら水に従え」とは山歩きの極意です。
五人は無言のまま、進むべき道を察して、蔓草(つるくさ)や深山の笹を分けながら、なだらかな谷の断崖を降りていきました。
――その時です。
ニョッキリと星空にそびえる白樺の木。その高い枝に、緑の黒髪を風になびかせて腰かけていた、ひとりの美少女がいました。
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