初級翻訳・神州天馬侠 第72話

吉川 英治

五遊星、北極星、北斗星、二十八宿星……その輝きによって北条流軍学の星占いを行っているらしく、昌仙はしばらくして一人で納得すると、元の席へ戻り、呂宋兵衛に向かって離散と逃亡の策を授けました。

「では、なんとしても私一人、そなたも一人、他の者たちも皆バラバラになって逃げなければ危ないというのか?」
蛮流幻術に長け、不思議な力を操る呂宋兵衛も、生まれつきの臆病さは隠せず、声を震わせながら昌仙の顔を見つめました。
「残念ながら、富岳(富士山)の空に凶兆がはっきりと出ております。もはや、死か離散かの二つに一つしか道はないと思われます」
「伊那丸なんぞに滅ぼされて、ここで終わるのも無念極まりない。うむ……では、ひとまず各自勝手に逃げ延びて、またの時節をうかがおう。京都へ集まって、人穴城の栄華にも勝る出世の策を立てることにしよう」
「なるほど。京都へ行けば秀吉公の力にすがることもできましょうし、公家や諸侯の屋敷も並んでおりますから、また何かうまい手蔓が見つかるかもしれません。では呂宋兵衛さま、一刻も早く、ここを退散する支度を……」
「おう、じゃあ昌仙も他の者も、のちに京都で落ち合うことは確かだな?」
「承知いたしました。必ずまた頭領のもとへ駆けつけます」

一同が声をそろえて答えるのを聞き、呂宋兵衛は有り金を頭割りに分配して、武器や服装、足ごしらえなど、逃げる準備を始めました。

間を置かず、遠くから響いてきたのは、轟々たる金鼓(陣太鼓)や攻め貝の音。伊那丸の軍勢は、法師野の里へとひた押しに押し寄せ、怒濤のごとく大庄屋・狛家の周りをぐるりと取り囲みました。

その瞬間、呂宋兵衛一味の残党は、部屋ごとの灯火を吹き消すと、約束通り自由行動を開始しました。蜂の巣を突いたように、八方から闇に紛れて戸外へ逃げ出します。
塀を飛び越えようとする者、木の枝にぶら下がる者、屋根に登って隙をうかがう者、仲間を組んで破れかぶれに斬り込んでいく者……彼らが一斉に「ワーッ!」と叫び声を上げると、攻め寄せる側も木霊がえしに武者声を合わせました。弓組が一斉に弦を鳴らし、白刃組が刀を交え、あちらこちらで修羅場が繰り広げられました。

その時、鉄の鋲を打った兜に小具足をつけ、背中に伝令旗を差し立てた一人の騎馬武者が、伊那丸の命を受けて五つの陣の間を駆け巡りながら叫びました。

「――民家に火をつけるな!
――罪なき民を傷つけるな!
――降伏を願い出る者は斬るな!
――和田呂宋兵衛は必ず生け捕りにせよ!
以上、大将および軍師の厳命である。違反する者は、たとえ味方であっても斬罪に処す!」

と、声をからして伝令を伝えきりました。二

「もうだめだ。表のほうは、蟻(あり)が這い出る隙間もねえ。昌仙さま、昌仙さま、うまい逃げ道を見つけたから、早く頭領を連れてこっちへ逃げておいでなさい!」

まっ暗な裏手に飛び出し、あわただしく手を振ったのは早足の燕作。
ひゅうッ、ひゅうッ、と唸りを立てて飛んでくる矢は、そのあたりの戸袋、井戸の縁、軒先、立木の幹、ところ構わず突き刺さって、まるで横殴りの吹雪のようでした。
すると、暗く沈んだ屋敷の中から、丹羽昌仙の低い声が響きます。
「呂宋兵衛さま、裏手のほうが手薄と見えて、燕作がしきりに喚(わめ)いております。さあ、少しでも早くここをお落ちなさいませ」
「うむ」
と何か囁きながら、奥からぞろぞろと出てきたのは、丹羽昌仙、蚕婆(かいこばば)、足助主水正(あすけもんどのしょう)、佐分利五郎次(さぶりごろうじ)、そしてその中を取り囲まれた黒布の蛮衣(ばんい)をまとった大男が、紛れもない和田呂宋兵衛か――と思うと、またあとから同じ黒衣をつけ、同じ銀の十字架を胸に垂れ、同じ背格好の男が二人も出てきました。
しめて、七人。
その中に呂宋兵衛が三人もいるのです。
二人はもちろん昌仙がとっさの妙策で作り上げた影武者ですが、どれが本物の呂宋兵衛か、どれが影武者か、夜目ではまったく見当がつきません。

「燕作、燕作!」
昌仙は用心深く、裏口へ首だけ出して怒鳴ってみました。
矢はしきりに飛んできますが、幸い、まだ伊那丸の手勢はここまで踏み込んでいません。
「燕作、逃げ口を案内しろ! 燕作はどこにおるのだ」
「あ、昌仙さまでございますか」
「そうだ、呂宋兵衛さまをお逃がし申さねばならぬ。うまい逃げ道を見つけたとは、どこだ」
「ここです――ここです」
「どこだ、そちはどこにいるのだ」
「ここですよ。昌仙さま、呂宋兵衛さま、早くここへおいでなさいまし」
「はてな?」
流れ矢があぶないので、七人とも首だけ出して、裏手の闇をじーっと見渡しましたが、不思議なことに、すぐそこで大きく響く燕作の声はすれど、どこをどう見つめても、彼の姿が見当たりません。
とたんに、表のほうへ伊那丸の手勢が乱入してきたのか、すさまじい物音が響きます。逃げ出した部下もあらかた生け捕りにされたり、斬り倒された気配です。

「それッ、ぐずぐずしてはおれぬ!」
七人の影が流れ矢をくぐって外へとび出し、一か八かの血路を切り開く覚悟で、裏の土塀によじ登ろうとすると、
「あぶない! そっちは危ない!」
と、また燕作の声がします。
「どこだ、そのほうはいずれにいるのだ」
「ここだよ、こっちだよ」
「こっちとはどこだ」
七人は行き場に迷ってうろうろしました。矢は見る間に、めいめいの袖や裾にも二、三本ずつ刺さってきます。
「ええ、じれってえな、ここだってば!」
「や、あの声は?」
「早く早く! 早く降りておいでなせえ」
「燕作!」
「おい!」
「どこじゃ!」
「ちぇッ、血の巡りがどうかしているぜ」
という声が、どうやら地底でしたと思うと、かたわらの車井戸にかけてあった釣瓶(つるべ)が、癇癪(かんしゃく)を起こしたように、カラカラカラと揺さぶられました。
「や、この井戸底にいるのか」
「そうです、ここより逃げ場はありませんぜ」
「バカなやつめ」
影武者のひとりか、あるいは本人の呂宋兵衛か、井戸の縁に立ってあざ笑いながら、
「こんな中へ飛び込むのは、自分で墓へ入るも同然だ」
「おッと、そいつは大安心。ここは空井戸で一滴の水もないばかりか、横へ抜け道ができているから、確かに間道(かんどう)です」
「なに、抜け道になっているとか。そりゃもっけの幸い」
と、にわかに元気づいた七人は、代わる代わる釣瓶伝いに空井戸の底へキリキリと下がっていきます。
そして、すでに七人のうち五人までが姿を隠し、しんがりに残った影武者のひとりと佐分利五郎次とが、続いて釣瓶縄にすがって片足をかけたとき、早くもなだれ入った伊那丸勢の真っ先きに立って、疾風のごとく飛んできたひとりの敵。

「おのれッ」
と、駆け寄るやいなや、雷のような怒声が一喝。闇から唸りを上げて飛んできた一条の鉄杖(てつじょう)が、ブーンと釣瓶もろとも、影武者のひとりをただ一撃にはね飛ばしました。
そのおそろしい剛力に、空井戸の車は砕けてすさまじく飛び散り、太い棕櫚縄(しゅろなわ)は、大蛇のごとくうねって、血へどを吐いた影武者の体に絡みつきました。

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