初級翻訳・神州天馬侠 第71話

吉川 英治

そのお返しに、こうしてやる、こうしてやる!」

もともと石投げの名手である蛾次郎が、邪魔者のいない頭上から狙い撃ちにするのですからたまりません。さすがの燕作も反撃のしようがなく、慌てふためいて竹童の体を横脇に抱え直すや否や、小山の降り口へ向かって一足飛びに逃げ出しました。
しかし、その時でした。蛾次郎が渾身の力を込めて投げた石つぶてがピュッと飛んできて、燕作のこめかみに命中しました。急所への一撃に燕作はクラクラと目を回し、竹童の体を抱えたまま、粘土の急坂で足を踏み外して竹林の中へと転がり落ちていきました。

「やあ、いい気味だ、いい気味だ! ヒヒヒヒヒ」

白い歯をむき出しにして空へ向かって勝ち誇った蛾次郎は、口にくわえていた細竹の杖を持ち直し、まるで竹童そっくりの得意げな様子で命じました。

「さあクロ、あっちへ飛べ!」

南――遠江の国は浜松の城、徳川家康の隠密組・菊池半助の居場所を目指して、一気に鷲を駆けさせたのです。
幸か不幸か、今の竹童は気を失っていてそれを知りません。もし目覚めたあと、天下の何よりも愛してやまないクロが、蛾次郎に盗み去られたと知ったら、どれほど腹を立てることでしょう。

三

ゴットン、ゴットン、ゴットン……。
水車の刻むリズムに合わせるように、あたりはいつしか夕暮れを迎えていました。竹林の闇に夜風がサワサワと揺れ始めると、昼間にはそれほど気にならなかった水音が、いっそう恐ろしい響きを帯びてきます。
――ことに今夜は、小屋に明かりを灯す者もいません。
星明かりで見ると、燕作は水車小屋のすぐ上の崖で、竹童を抱えたまま、だらりと木の根に引っかかっていました。
――二人とも、死んではいないものの、気絶したまま動けません。
すると上の竹の葉が、サラサラ……とひそやかにそよぎだしたかと思うと、笹の雫がポタリとこぼれ落ち、燕作の顔を濡らしました。
そこで燕作はハッと正気を取り戻し、むくむくと起き上がって闇の中につっ立ちました。立ち上がったとたんに、笹の枝からヌルリとしたものが燕作の首に巻きつきました。

「あっ――」

と掴んで投げ捨てると、それは小さな白蛇でした。
今度は倒れている竹童の胸に乗り、その懐へ鎌首を突っ込むと、スルスルと襟首へ銀の輪のように巻きつきました。
夜はますます深まり、森の中は静まり返っています。燕作はなんだかゾッとして手が出せず、顔についた雫を拭い去りました。
その時、あまり遠くない場所から、ボーッ、ボーッという法螺貝の音と、陣鐘の音が鳴り響いてきました。耳を澄ませば、ごくかすかに甲冑の触れ合う音も聞こえます。兵が整然と進んでくる足音までが、潮のようにひたひたと近づいてくるのです。

「おお!」

燕作はいきなりそばの木に登ると、枝を伝って水車小屋の屋根の上へポンと飛び移りました。そして、暗闇に包まれた裾野の方角へ小手をかざして見てみると、なんと大変なことでしょう。
急は目前に迫っていました。味方の一大事です。すでに十数町(約1キロメートル)の距離まで敵が迫ってきていたのです。
竹童が合図の狼煙を上げたのを見て、この地方に敵がいると察知した武田伊那丸は、白旗の森に軍勢を整えていました。裾野陣にいた兵を加え、約千余の人数を「星」「流」「騎」「白」「幻」の五段に分け、「木隠」「巽」「山県」「加賀見」「咲耶子」の五人を五隊の将として配置したのです。
采配や陣立ては、もちろん軍師・小幡民部による指揮です。陣の中央には天象の太陽座、すなわち武田伊那丸の大将座があり、陰陽脇備え、畳備え、旗本随臣たちが楯のように周囲を隙間なく囲んでいました。伝令旗持ちがその左右につき、槍組、白刃組、弓組が先頭に立ち、小荷駄や後備えはもっとも後ろに控えて、今まさに三軍の星をいただき、法師野を目指して急いでいたのです。
昼間に見れば、孫子の四軍の法を整々と踏んだ小幡民部の軍配ぶりは、さぞ見事な光景だったでしょう。しかし今は荒涼とした星明かりの下、小屋の屋根から小手をかざした燕作には、ただ押し寄せる殺気しか感じられませんでした。

「うーむ……」

燕作は思わず唸りました。

「いよいよ伊那丸のやつらが、呂宋兵衛さまの居場所を嗅ぎつけてきやがったな。おお、少しでも早くこのことを法師野へ知らせなくちゃならねえ」

ヒラリと屋根を飛び降りた燕作は、この大事に驚愕して、もう一人の竹童を振り返る暇もなく、得意の早足で一目散に、どこへともなく飛ぶように駆け去っていきました。白樺に笛吹く少女

一

早足の燕作は、とにかく走りに走りました。
水車小屋から法師野(ほうしの)までは、たっぷり二里八、九丁(約九キロメートル)はあります。暗い夜道も険しい悪路もものともせず、一飛びするたびに五、六尺(約一・五〜一・八メートル)もの距離を踵で蹴り飛ばしながら、あっという間に大庄屋・狛(こま)家の土塀門の中へ、息もつかずに駆け込みました。

ところが、たどり着いてみると、そこは意外なことに、これ以上ないほどのんきな様子でした。
呂宋兵衛(ろそんひょうえ)をはじめとする野獣のような残党たちは、竹童が上げた狼煙(のろし)や、武田伊那丸の軍勢が出動したことなど露知らず、全員がすっかり油断しきって酒宴の真っ最中だったのです。中にはすでに酔いつぶれて、正体をなくしている野武士までいました。

息を弾ませながら、門のあたりから奥の様子をうかがった燕作は、
「ケッ、バカにしやがって」
と、むっとしました。
「俺一人を番小屋に張り込ませておいて、自分たちだけ好きなようにやりやがって。よし、癖にしてやる。一番肝が冷えるほど、脅かしてやろうじゃないか」
自分だって蛾次郎相手に賭け事をしていたことなどは棚に上げ、不平顔で鼻を鳴らした燕作は、いきなり庭先の闇へバラッと飛び出すと、両手をめちゃくちゃに振り上げ、大声で叫びました。

「一大事だ、一大事! 酒宴なんてやってる場合じゃない、とんでもないことが起きたぞ!」

取次ぎもなしに突然怒鳴り込まれたので、呂宋兵衛は持っていた杯を取り落とし、顔色を変えました。彼だけでなく、丹羽昌仙(にわしょうせん)、蚕婆(かいこばば)、穴山の残党である足助(あすけ)と佐分利(さぶり)、そのほかに居並ぶ野武士たちまでが全員総立ちとなり、せっかくの楽しい宴は、たった一声で台無しになってしまいました。

「おお、そちは番小屋の燕作ではないか。さては、伊那丸方の間者(スパイ)として紛れ込んできたのか?」
「あ、昌仙さまでしたか。間者どころか、武田伊那丸自身が一千あまりの軍勢を率いて、この法師野へ攻め込んでくる様子です!」
「うーむ、さすがは伊那丸。もうこの隠れ里を嗅ぎつけてきたか。四、五日は大丈夫だろうと高をくくっていたのが、この昌仙の誤りだったか……ああ、どうしたものか」

丹羽昌仙はため息をついてつぶやきましたが、急にひらりと庭先へ出ると、じっと夜空を見つめ出しました。空は月もなく、紺色の紙に銀箔を散らしたような星月夜です。

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