それにも飽き足らず、最後に、まるで喉笛でも締め付けられたかのように、竹童の体を抱えていた蚕婆(かいこばば)が手を離すと、竹童はグッタリと地上にうつ伏せに倒れてしまいました。
「ふん……」
とせせら笑いながら、
「婆、こっちへ入っていろ」
一方の幕を上げ、呂宋兵衛がすばやく影を隠すと、老女修道者の姿で彼につき従っていた吹針(ふきばり)の蚕婆も、ニヤリと歯をむき出しにして、腰をかがめながらそのあとへ続こうとしました。
その弱腰へ、一本の鉄杖の先が、
「これ」
と軽く突き刺さりました。
軽く突いたとはいえ、それは鋼鉄の杖です。力を入れていないように見えても、忍剣(にんけん)が突いたのです。
「うッ……」
というなり蚕婆は、甲羅を割られた亀の子のように、グシャッと幕の裾にへたばってしまいました。
陣幕を払い上げた忍剣は、蚕婆には目もくれず、飛足を飛ばして踊り込むなり、稲妻のように次の幕の間へと逃げ込んだ黒衣の袖を、グッとつかみました。
「悪伴天連(あくばてれん)呂宋兵衛、待て!」
四
「なにッ」
と言うと銀の鞭が、ビュッと忍剣の腕を強く打ち返してきました。
――間違いなく和田呂宋兵衛です。
逃がしてはならない。
忍剣はそう思いました。実を言うと、彼がここへ駆けつけてきたのは、山県蔦之助の遠矢の敗北がいかにも不自然で、解しかねる点が多々あったため、徳川方の勝ちと判定した検使や目付役に一苦情を申し立てようと、意気込んでやってきたのです。
もちろん、ここで呂宋兵衛と出会うとは夢にも思っていませんでした。
しかし、竹童が打ちのめされたのも目撃したし、その異様な妖人の姿は、夢の中でも忘れることのない仇敵です。
何をおいても、見逃せません!
「おのれ」
振り下ろされた銀の細鞭をかわしながら、忍剣は片手でつかんだ黒衣の袖を離しません。
呂宋兵衛は絶体絶命の窮地に、「御岳だ!」と叫びました。
「御岳だぞ」と言ったのは、血を見ることを禁ずる神文(しんもん)の誓いを持ち出し、卑怯なやり方で相手をためらわせようとしたのです。
「黙れ、妖賊!」
忍剣は耳も貸しません。
引き戻そうとする力と、逃げ込もうとする力とがぶつかり、当然のようにベリッと黒衣の袖が破れました。
ちぎれた布の一片は忍剣の手につかまれたまま、呂宋兵衛はよろよろと二、三歩よろけましたが、幕のあいだで鉄杖の扱いもままならず、黒豹のように逃げ込んでいく後ろ姿に、
「待て、待て!」
と叫びながら、手に残った黒い布を放り捨てました。そのはずみに妙な粘力を腕に感じて、思わず「おや」と振り返ると、肩の先へ、一度地に捨てた黒衣がフワッと勢いよく跳びついてきました。
「やッ」と肩をすかしました。
その首元を飛び越えて、目の前へ軽業師のようにモンドリ打って現れたものを見て、どうでしょう。思いがけないことに、真っ黒な烏猫(からすねこ)が、首輪に銀玉の鎖をかけ、十字架をつけているではありませんか。
その銀玉の鎖と十字架をチリチリと鳴らしながら、幕の裾をかわいらしく駆け出したので、
「蛮流の妖術師め、さてはうまく姿を変えたな」
鉄杖を持って追い回すと、猫はなおもチリチリと逃げ出して、突然、向こうの隅に萩や桔梗などの秋草が挿けられた大きな壺の口へ、ポンと飛び込んでしまいました。
それを見て忍剣は、
「得たり!」
といきなり鉄杖を槍のように突き出し、大瓶の横腹へガンと勢いよく突っかけました。
瓶は砕け、秋草は飛び散りました。
砕けた陶器の破片を越えて、泉のように清水があふれ出したのは言うまでもありませんが、猫もいなければ呂宋兵衛の姿も現れません。
水に足を浸されて、ハッと我に返ると、これは野陣の人々の飲料水だったのでした。あれは、反間の敵に毒を混ぜられないよう、わざと花壺に見せかけておいた「生命の水」に違いありません。
「逃がした……」
忍剣の頭の中は、その時、霧がかかっているような心地でした。
ぼうぜんと立ち尽くしていると、張り巡らされた幕にソヨソヨと小波のような微風が揺れ、幕の影のあたりを、聞き慣れない南蛮歌の旋律に乗せて、口笛を吹きながら通り過ぎる何者かの気配がしました。
「あッ」
銀の鞭が空を切る音がします。
そして、
「あははははははは……」
紛れもない、怪人・和田呂宋兵衛の人を馬鹿にしたような笑い声が響きました。
神馬草薙と早足の男
一
あざ笑う声はする。銀の鞭が幕の後ろを歩いている。
だが、霧のような邪魔な幕に遮られて、見当もつかなければ姿も見えません。忍剣は地団駄を踏んで、波打つ幕の向こうを探ろうとしました。
しかし、瓶の水が表の方へ一気に流れ出したため、それに驚いた徳川家の諸士や、溜まり場のむしろを水浸しにされて飛び上がった例の菊池半助、鼻かけ卜斎、泣き虫の蛾次郎、そのほか小姓のとんぼの連中までが総立ちとなり、裏手へ回ってきそうな気配が漂いました。
「これはいかん」
忍剣は、早くも執着を捨てて、
「また良い機会もあろう。ここで今日の試合をめちゃめちゃにしては、咲耶子を無難に取り返すことができなくなってしまう」
と分別しました。
ひらりと元の場所へ帰ってくるなり、そこに倒れている竹童を小脇に抱えました。竹童は一時的な昏倒から、
「あッ、忍剣さま」
とすぐに目をひらき、忍剣のたくましい腕の中で自由になりました。
自分の居場所へ駆け戻ってみると、そこでもまた、なにやら問題が起きている最中でした。総奉行の大久保長安と、検証の鐘巻一火が自らやってきて、なにやら頻りに大声で弁じているのです。
今、いきなり飛び込んではまずいと考えた忍剣がそっと様子を窺っていると、
「いや、ただいまの遠矢は、あくまで蔦之助が勝ったものと信じます。鐘巻殿も一流の火術家でありながら、あの的先にお眼が届かぬとは心細い次第でもあり、また、検証の床几につきながら、徳川家へ勝ち名乗りを上げられたのは早計至極かと考えております」
これは山県蔦之助自身と、木隠と巽が一緒になって主張している言葉の要点でした。
「しかし、加賀爪伝内の遠矢が額縁に立派に立っているのに、貴公の矢が鳥居の柱にも立っていないのはどういうわけか。これ、弓勢が足りず、矢走りの途中から谷間へ落ちた証拠ではあるまいか」
というのは、徳川方の強弁でした。
それに対して、蔦之助は笑いを投げかけて、
「いや、自分の弦を離れた矢が谷間へ落ちたものか、的を射当てたものかぐらいなことは、弓返りの途端にこの手元へ感じるものでござる。たとえば、鐘巻殿の鉄砲にしても、その実感にお覚えがあろうが」
「ウム、なるほど……それは確かに一理ある」
一火はさすがに、その言葉を反駁しませんでした。
だが、奉行の石見守や目付たちは、どうしてもその説だけでは納得がいかない様子です。また、蔦之助としても、事実においてその矢が的先に見えないのであるから、それ以上なんと理由づけて力説することもできないのでした。
「では、この勝負は暫時、自分がお預かり申すとしよう。その代わりに……」
と、鐘巻一火は間に入って困り果てた挙げ句、窮余の一策を持ち出しました。
「最後の勝負、遠駆けの折に、あの大鳥居を目当てとして駆けさせ、双方その矢を持ち帰ってくるとしたらどうであろうか。
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