初級翻訳・神州天馬侠 第38話

吉川 英治

「むうッ、ではなんだって? あの武田伊那丸のやつらが、穴山梅雪をやっつけて、おまけに湖の底から宝物の石櫃(いしびつ)まで取り出したというのか!
あの中に入っていたはずの『御旗楯無(みはたたてなし)』の宝物は、ずっと前にこっちでそっくり入れかえて、別のところに売り払ってしまったからいいようなものの、そんなこととは知らずに、伊那丸のやつらも咲耶子も、みんなそろってここに攻め寄せてきたら大変だ。
こいつは大強敵だ、油断は一切できん! すぐに人を配置して、お城の重要な場所はすべて厳重に固めておけ!」
立ち上がって、怒鳴るように命令を下したそのとき、石の門のほうから連絡係の野武士がパタパタとかけ込んできた。彼はあわただしい様子で、
「おかしらに申し上げます!
たったいま、第一の門のところに、穴山梅雪の部下が二、三十人やってきて、『ぜひともお願いがある』と言っているのですが、どういたしましょうか?」
「穴山の残党だと? それなら、湖のほとりで伊那丸たちにやられた敗残兵にちがいない。
だがな、こんな危ないときには、少しの人手でも多いほうが味方だ。
その中からおもだった者だけ、二、三人通してみろ」
「承知いたしました!」
そう言って引き返した手下の者は、やがて、お城の大広間へとふたりの武士を案内してきた。
呂宋兵衛は上段の席から悠然(ゆうぜん)と見下ろしながら、
「富士浅間の山大名、和田門兵衛(わだもんべえ)とはこの身のことだが、わしに会いに来たその用事とはなんだ?」
「さっそくお会いいただき、ありがたく存じます。
実はわたくしは、穴山の四天王の一人、足助主水正(あすけもんどのしょう)と申す者でござる」
「そして某(それがし)は、佐分利五郎次(さぶりごろじ)と申す。すでに耳にされているかもしれないが、残念ながら伊那丸の一味のずる賢い策略にかかり、主君の梅雪は討たれ、われら四天王のうち天野と猪子のふたりまでがあえなく命を落としてしまったのだ」
「その件については、たいま手下の者からもくわしく聞いたところだ」
「主君が滅ぼされてしまったいまとなっては、甲斐へ帰ろうと都へ行こうともはや意味がない。いっそ腹を切って果てようかとも思ったが、それも犬死にというもの。頼るあてもなく残された二、三十人の家来たちがかわいそうなので、こうして彼らを集めてあなたを頼ってまいったのだ。どうか、われらふたりをはじめ、一同をこの山のお城に置いてもらえないだろうか?」
「おお、それはそれはご心中お察しするぞ。武士はお互いさまじゃ、必ず力になってやろう!」
呂宋兵衛は、心の中で大喜びした。
ちょうどそのとき、この危ないタイミングで、百戦錬磨の家来を二、三十人も連れたふたりの勇士が味方になってくれるなんて、なんと素晴らしい幸運だろうか。彼は足助と佐分利をまるで大切なお客さまのように扱い、これ以上ないほど手厚くもてなした。おかげですっかり気が大きくなった呂宋兵衛は、すぐさま軍議(作戦会議)を開くことをみんなにふれ回らせた。
妖しい雰囲気をただよわせる鐘がゴーンと鳴り響くと、鎧を着た者や普段着の者たちが、ぞろぞろと軍議室に入ってきた。
そこは四方の長さが三十七間(約67メートル)、百二十畳もの籐(とう)のむしろが敷き詰められ、黒く太い丸太の柱が左右に十本ずつ並ぶ大殿堂である。
中庭のほうからほのかな日光が差し込んでいるものの、部屋の中はどんよりと陰惨(いんさん)でうす暗い。昼間から灯された短檠(たんけい:小さな明かり)の赤い光にぼんやりと照らし出されているのは、みんな呂宋兵衛の腹心の強者(つわもの)たちばかりだった。
「笑わせるな、笑わせるな! 乳くさい伊那丸や咲耶子などが、烏合(うごう)の衆の小勢(こぜい)で攻めてくるというのに、なにが悲しくてこんな大げさな軍議など開く必要があるものか。
わしに二、三百の兵をあてがってくれるなら、ただひと押しで蹴散らして見せようぞ!」
破れ鐘のようなガラガラ声でそう言い放つ男がいた。
見れば、山のお城で一番の怪力で、熊のような立派なひげをたくわえた轟又八(とどろきまたはち)だった。
すると今度は反対側から、軍略の天才として知られる丹羽昌仙(にわしょうせん)が、もっともらしい顔で口を挟んだ。
「お控えなさい、轟! 敵を甘く見ることは、すでに滅びる前兆でござるぞ。
伊那丸はあの有名な武田信玄の孫であり、兵法にも非常にくわしい。まわりに控えている教育係(傅人:ふと)たちも、めったにいないほどの勇士だと聞く。
ここはぜひ、この天然の要塞にしっかりと立てこもり、敵がやってきたところを策略によって討ち取るのが一番の上策だ」
「なにを言うか、昌仙の臆病者の意見め!
富士の山大名ともあろう者が、あんな小僧どもに恐れをなしたなどと言われては、まわりの国々への大いなる物笑いの種だ。
今すぐこちらから五湖へ出向いていって、生け捕りにしてこそ上策よ!」
「いや、たとえ小勢とはいっても、あちらには知恵があり、情けがあり、勇気を持った者たちがそろっているのだから――」平野の戦はあやうし、あやうし」
「くどい、拙者はどこまでも討ってでる」
「だまれ轟、まだ衆議も決せぬうちに、僭越(せんえつ)千万な」
 ふたりの言い争いに続いて、一同の意見も二つの派閥に分かれ、その場は何となくざわざわと騒がしくなってきたころ――
 これまた何たる皮肉! 空から中庭の真ん中へと、ズシーンとすごい音を立てて飛び降りてきた、雷の化け物(雷獣)のような一人の変な子どもがいた。
二

「や!」
「あッ」
「なんだあいつは?」
 あまりの突然のことに、みんなはしばらく開いた口がふさがらず、ひょっこり庭先に立ったふしぎな子どもをじっと見つめるだけでした。
子どもとは言うまでもなく竹童(ちくどう)です。彼は人見知りもせず、ニヤリと白い歯を見せました。
「やあ、この人穴(ひとあな)には、ずいぶんたくさんのお侍がいるんだなあ。
おじさんたちは、いったいここで何をしているんだい?」
「バカッ!」
 いきなり革の足袋(たび)を履いたまま飛び降りたのは、轟又八(とどろきまたはち)です。彼は竹童の襟首(えりくび)をつかまえて怒鳴りました。
「こらっ、きさまはどこの炭焼きのガキだ! いったいどの隙間からこんなところへ忍び込んできたんだ?」
「忍びこんでなんかきやしないよ。あわあわ、苦しいよ、おじさん……」
「ふざけたことを言うな! 忍び込まずに来られるような場所じゃないんだぞ」
「だっておいらは空から降りてきたんだもの。空は通り抜けできるから、つい来ちゃったんだよ」
「なに、空からだと? ――」
 人々は思わず、不気味なものを見るような顔をして空を見上げました。
そして、目の前にいる奇怪な少年の姿を二度見しながら、こいつは天狗(てんぐ)の化身(けしん)にちがいないと、驚いて舌を巻きました。
その様子をはるか上から眺めていた呂宋兵衛(るそんひょうえ)が言いました。
「おいおい又八、とにかくふしぎな子どもだな。おれがその正体を問い詰めてやるから、こっちへ引っ張ってこい!」
「はッ!」と、又八は竹童をかるがるとひっつかみ、座敷の上へと上がって、呂宋兵衛の目の前へポーンと放り出しました。

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