今朝のここは、まさに楽園です。
神木の上に縛り付けられている忍剣を除いては、すべての生き物にとって、天国そのもののような秋の朝でした。
そこへ――。
のんびりとした鳥や獣を驚かせるような、人間の口笛が下の方から聞こえてきました。
これもまた、晴れやかな秋を謳歌している人間なのでしょうか。聴いているだけで筋肉がピクピクと動き出しそうな、そんな口笛です。
健康な両足で、軽快な歩調でやってくるのが目に浮かぶような音色でした。
「ああ、ずいぶんと登らせてくれるじゃないか。まだなのかい! ご神刑のブナの木っていうのは」
誰もいないと思って、蛾次郎は思うさま大きな声でひとりごとを言いました。
――それは、泣き虫の蛾次郎でした。
喉が渇いているらしく、蛾次郎はそこで一息つくと、岩の隙間から滴り落ちる清水に顔を突っ込み、口を開けました。
「おお、冷たい!」
袖で口元を拭うと、また数十歩ほど登り始めました。
すると彼の前に、裾野の樹海でも見たことがないような、巨大なブナの古木が天を突くように立っていました。
蛾次郎は思いました。まるで化け物のような大きな木だな、と。
「おや?」
見ると、その千年ブナの根元に、石橋山で頼朝が身を隠したような洞穴があります。
その真っ暗な洞穴の中で、何かがコトリと音を立てました。
コトコトと、かすかに聞こえたのです。
「キツツキかな? それともキツネか?」
足を止めて考えました。
が――音はそれっきり止んでしまいました。
しかし、そこで何気なくヒョイと樹上を見上げた瞬間、彼は目をグルグルと回して、
「ウーム、これだ、これだ! この木に違いねえ」
と、うなりました。
数歩後ろへ飛びのくと、帯の間に差し込んでいた銀色の鋲が打たれた短銃を右手につかみました。
「はあん……おるわい」
手をかざして樹上を仰ぐと、確かに神刑に処されている忍剣の姿が小さく目にとまりました。
そこで蛾次郎は、大久保長安から卜斎に伝えられた秘命を思い出し、頷きました。
「親方が言っていたのはこいつだな。これを撃ち殺してこいという言い付けか。なんだ、こんなものなら朝飯前、ただの一発だ。これで俺が出世できりゃ、ありがた山のホトトギスさ」
彼は火縄の支度を始めました。
「できたぞ」
岩の陰へ身を隠して片膝をつき、短銃の筒先をキリッと構えました。
じっと狙いをつけます……忍剣の姿へ。
忍剣は、自分の身に迫る危険を知る由もありませんでした。
おそらく彼は、故・快川和尚の最期の言葉――「心頭を滅却すれば火もまた涼し」――という禅の境地を味わって、二十一日の刑を少しも長いとは感じていないのでしょう。
狙いは定まりました。
火縄の火がチリチリと散った瞬間、蛾次郎の指先はすでに短銃の引き金を引こうとしていました。
その時でした。
「わっ!」
蛾次郎は短銃を放り出し、自分の顔を押さえました。
そして、ベッ……と顔をしかめながら立ち尽くしました。
何やら甘酸っぱいものが顔中にこびりついて、拭いても拭いてもきりがありません。
――どこから飛んできたのか、熟して腐りかけた柿が、顔の真ん中でグシャッと潰れたのです。
柿による目つぶし!
「ちくしょう、猿のいたずらか」
蛾次郎は忌々しく思いましたが、まごまごしていると火縄の火が消えてしまいます。
彼は慌てて短銃を取り直しました。
そして、
「今度こそは!」
と、立ち構えて狙いを定め、ズドンと火蓋を切ろうとした、その一瞬でした。ブナの木の洞穴から飛び出したひとりの怪人が、雷光のようなすばやさで、蛾次郎の胸板を思い切り突いてきました。
不意を突かれて、
「あっ――」
とよろめいた蛾次郎は、夢中で相手の襟首をつかみました。
彼の手が掴んだのは、柔らかい獣の毛でした。
その怪人は、猿の毛皮をかぶっていたのです。
「てめえだな、今の仕業は!」
蛾次郎は短銃を逆手に持ち、毛皮の上から三つ、四つと殴りつけました。
相手はビクともしません。
それどころか、グングンと自分の喉を締め上げてきました。
蛾次郎は心の中で、こいつは強いぞと驚きました。
「この野郎、うっかりしちゃあいられないな」
猛然と勇気を奮い起こし、邪魔になる喉元の腕を振りほどきました。
ピシャリと、敵の平手が蛾次郎の頬を叩きましたが、蛾次郎もまた足を上げて相手の脛を蹴飛ばしました。
互いの精一杯の弾力をぶつけ合い、二人は後ろへとよろけました。その勢いで、相手がかぶっていた獣の皮が勢いよく蛾次郎の手に引きはがれました。
「あっ、てめえか!」
蛾次郎は初めて相手の全姿を見て、ぎょうてんしました。
菊亭家の密使
一
「やっ。てめえは、竹童だな」
蛾次郎はひるんだ声で叫びました。
彼が驚いたその瞬間に、猿の毛皮で頭から身を隠していた鞍馬の竹童は、
「オオ!」
と、その姿をあらわすとともに飛びつき、蛾次郎の手にある短銃をもぎとろうとしました。
よろけ合った二つの体は、闘鶏師にけしかけられた猛禽のように、互いに肩を組んで咬み合い、組んずほぐれつの争いとなりました。
この間ずっと、千年ブナの洞穴の中に隠れて、毎朝木の上に登り、神刑に処されている忍剣の口へ食べ物を運んでいた猿の正体は、間違いなく竹童でした。
一党の中でも長兄のように慕っている忍剣が、むごい神縄にかけられて山へ送られて以来、彼はこの洞穴に忍び込んでいたのです。
そうして忍剣と苦しみを分かち合い、その命を守り続けていたのでした。
敵方の思惑を抱えて忍剣を殺そうとする蛾次郎に、むざむざと手柄を立てさせるわけにはいきません。
ぼう然と怒りを爆発させた竹童は、相手が樹上の忍剣に向けて狙撃の引き金を引こうとする隙に、完全なタイミングで飛びかかってきたのです。
しかもそれが蛾次郎だとわかったので、竹童は「今日こそはこの天邪鬼(あまのじゃく)を、断じて生かしておいてはならない」と怒りに燃えました。
蛾次郎もまた、大事な出世の糸口をつかもうとする矢先にまたしても竹童が邪魔をしに来たので、目的を果たす前にこいつの息の根を止めてしまわねばならないと、すごい勢いで応酬していきました。
まったく休む間もない格闘が続きました。
上になり下になり、互いに致命的な急所を押さえつけようとしているうちに、蛾次郎は竹童の体に足技をかけて、その手元を抜けるやいなやパッと離れ、
「くるか!」
と、短銃の筒先を竹童に向けました。
「なにを」
竹童の目には、何ものに対する恐れもありませんでした。
蛾次郎はあわてました。彼の狡猾な脅しは通用しなかったのです。
火縄はさきほどの格闘で踏みつけられてしまったので、筒口を向けたところで今は何の役にも立ちません。
そのため、蛾次郎の立場は悪くなりました。
彼はひどく狼狽し、いきなり短銃を相手の顔へ投げつけると、バラバラと逃げ出しました。
それを肩のあたりでよけると、竹童の手には優越を示す般若丸(刀)のひらめきが握られていました。
彼は逃げ出した相手を追いかけて、
「ひきょうだぞ! ひきょうだぞ、蛾次郎!」
と叫んで飛びかかります。
さんざん逃げ回った蛾次郎は、ついに自分からとんでもない危地に駆け込んでしまいました。
そこは嵐弦(らんげん)の滝の崖っぷちで、明らかな行き止まりです。
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