「おやっ、あの子は」
お時は、手の内から玉を奪われたように呆然として失望しましたが、その目の前に、すぐまた同じような少年が一人、月ノ宮の境内から勢いよく駆け出してきました。
「――蛾次だ!」
石の狛犬のそばに立って、背伸びをしながら、逃げた者の後ろ姿を見送っているようです。姿も似ているし、年の頃もたいして違わない。ただ蛾次郎よりは少し背が低く、眼差しや口元に凛としたところがあります。
それもお時には初めて見る少年――あの鞍馬の竹童でした。
だが、子を探し迷うお時の目には、物陰からじっと飽かずに見ていると、ああ煩悩とは実に不思議なもの。この少年こそ、あるいは自分の子ではないか、あのお諏訪さまの灸の跡が背中にあるのではあるまいか、と。迷えば迷うほど、そう思えてくるのでした。
兵法大講会
一
勢いよく月ノ宮の境内から駆け出してきた竹童は、自分と入れ替わりにそこを飛ぶように逃げ出していった後ろ姿に向かって、
「やっ、あいつめ!」
石の狛犬に手をかけて背伸びをしながら――。
「蛾次だ、蛾次公だ」
と、棗(なつめ)のような目をクルッとさせて、いつまでもそこに見送っていました。
そして、彼の姿が犬ころのように宿場の端へ見えなくなると、竹童はもうそれを放念したかのように、
「はてな、伊那丸さまやほかの方々……もうお見えになってもいい頃だが」
とつぶやいて、別の方向へさまよわせていた目を、ふと狛犬の後ろに向けました。
すると――その陰に見慣れない巡礼姿のおばさんがぼんやりと立っていて、自分のほうを穴が開くほど見つめていたので、竹童はボッと顔を赤く染め、慌てて目を引っこめました。しかし、お時のほうは何か言いたげな微笑を送りながら、
「坊や、おまえはいくつだい?」
と、そばへ寄ってきました。
竹童は気まずそうに、もじもじと後ろへ足を引きました。
見たこともない坂東巡りの巡礼の女が、いきなり年齢を聞いたり、ジロジロと顔ばかり見つめてくるのが、なんとなく薄気味悪くもあったのです。「いくつ? おまえは今年いくつになったんだい?」
「…………」
「家はどこだい?」
「…………」
「この御岳のまわりかい? それとも、もっと遠い村から来たのかな?」
「…………」
竹童は小指の爪を噛んでいました。
誰に話しかけられても、打てば響くようなハキハキとした言葉が出る彼も、その優しく問いかける言葉には一言も返事ができません。ただ、「不思議な巡礼のおばさんだな」と、相手の身なりをじっと眺めることしかできなかったのです。
子を探し求める愛の闇。生んだわが子を探し歩く母親の迷いの中で、不思議な錯覚を起こしているお時は、相手の少年が恥ずかしがっていることにも気づきません。ただ「もしやこの子が」と思う一途な気持ちで、こう尋ねました。
「じゃあおまえは、両親はいるのかい? ……本当のお父さんを知っているの? おまえを産んだお母さんはどこにいるんだい?」
ずっと忘れていたはずのひとつの寂しさが、その唐突なお時の言葉によって、ハッと竹童の胸を打ちました。
『ほろほろと 啼く山鳥の声聞けば 父かとぞ思う 母かとぞ思う』
竹童は誰かに聞いたこの歌をひとつだけ覚えていて、父を思うとき、母を思うとき、寝床の中や森の影でひとりこの歌を繰り返していました。そうすると、いつも自然と涙が出てくるのです。
彼は、生まれた時から両親を知りません。
物心ついた頃から、鞍馬の奥の僧正谷(そうじょうだに)で果心居士(かしんこじ)に育てられました。友とするものは猿や鹿、むささびや怪鳥たち。師と仰ぐ人も果心居士、父と慕う人も居士、母と甘える人も居士でした。
「おいらは、木の股から生まれたんだ」
ついこの間まで、彼はそう信じていました。
しかし、やがて僧正谷から広い世間へ出て揉まれるうちに、初めて人間には両親がいることを知ったのです。父は六本の腕と三つの顔を持つ神よりも力強い柱であり、母は慈悲深い女菩薩よりも優しい守りであること。その二つのものが、人間には橋の下で生まれた子にさえあるのだと知りました。
「それなのに、なぜおいらにはそれがないんだろう?」
この疑問が深まり、竹童もいつの頃からか、自分の父は何者か、自分の母は誰なのかと、人知れずしきりに考えるようになっていたのです。
二
「そこにいるのは竹童ではないか。竹童、竹童!」
不意に、彼の空想と現実の狭間にあった耳を覚ます声がありました。
お時に親を問われて夢でも見ているようにぼんやりと考え込み、石の狛犬の横で指の爪を噛んでいた竹童は、近づく足音にハッとして顔を上げました。
すると、彼の顔いっぱいに意外な喜びに満ちた表情がパッと輝きました。
「おお、民部さま! やあ、伊那丸さまも!」
と、手を挙げて迎えました。
森の小道を抜けてきたのか、突然そこに姿を見せたのは、民部を先頭に、伊那丸を真ん中に、後ろに山県蔦之助(やまがたつたのすけ)と加賀見忍剣(かがみにんけん)の二人を従えた、旅姿の一行四名でした。
「竹童、よく無事でいたな」
蔦之助が手を握ります。
忍剣も肩に手を置いて言いました。
「小太郎山の変いらい、そちの消息が途絶えていたので、若君をはじめ一党の人たちがどれほど心配していたことか」
「あの、砦の留守番を仰せつかって、みなさまが帰らないうちに、あんなことになってしまったものですから……」
「もうその話はするな。お詫びは私たちから済んでいる。しかし、おまえはどうしてこんなところにぼんやりと立っていたのだ?」
「明日はいよいよ御岳の大講会、その前日には月ノ宮の森でみなさまと落ち合う約束でしたから。待ち遠しくて、さっきからずっとここに立っていたんです」
「ふむ、今日の約束を知っているということは、龍太郎と小文治の二人とは一緒だったのか?」
「はい、おふたりは先に着いて、森の垢離堂(こりどう)でお待ちです」
「そうか、ではすぐにそこへ行こうではないか」
伊那丸が藺笠(いがさ)を少し下げて先頭に立ちます。続いて忍剣、民部、蔦之助の三人が、久しぶりに再会した竹童を真ん中にして、まるで弟のように囲み、親しげに話を交わしながら月ノ宮の境内深くへと静かに歩き去っていきました。
あとには、ホウ、ホウと、山鳩の鳴く声が寂しげに響くだけでした。
そして、ひとりぼっち取り残された巡礼のお時は、寂しげな影をしょんぼりとたたずませ、去っていく者たちの後ろ姿を背伸びしながら見送りました。
「ああ……あの子も違っていたのかしら?」
とつぶやき、どこからか聞こえる哀れっぽい鳩笛の音に、何とはなしに涙を誘われて、垢じみた旅衣の袖で、思わずホロホロと涙をこぼしました。
「おう、そこにいましたね、お時さん。いやあ、息が切れましたよ。不意に人を置いてこんなところへ来てしまうなんてひどいじゃないか。いくらあとから呼びかけても、振り返りもしないで」
そう言って追いついてきたのは、あの優しい笑顔を浮かべた地蔵行者(じぞうぎょうじゃ)、菊村宮内(きくむらくない)でした。「ああ、宮内さま」
「おや、泣いていましたな」
「まだ目のさきにチラチラする。
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