初級翻訳・神州天馬侠 第17話

吉川 英治

おのれ、どうしてくれる、覚えていろ!」
 と地団駄を踏んでにらみつけたが、目の前には海が広がっている——それももう霧のようにぼんやりとして、遠州灘の波の彼方へと消えていくものを、いかに優れた龍太郎であっても、空を飛んで追いかける秘術などはない。

二

 そこへ、心配して駆けつけてきたのは小文治だった。
「若君のご身分は!?」
「とんでもないことになってしまった。船はないか、船は!」
「あの八幡船の後を追うなんて、とても無駄でございます」
「たとえ遠州灘の海の藻屑となっても構わない! 追えるところまで追う覚悟だ。頼む、早く船を出してくれ!」
「小船が一隻ありますが、八幡船の行く先ばかりは、これまで領主さまのご用船が、決死の覚悟で包囲しても、まるで霧のように消えてしまい、居場所を突き止めることなどできないほどなのです」
「くそっ、どうしてこうなってしまったんだ——」
 と、思わずどっかりとその場に腰を下ろしてしまった龍太郎は、我ながらあまりの不覚に、自分の唇をぎゅっと噛みしめた。
小文治はそれを見て、自分の不用意な行動を激しく後悔しはじめた。
母親を失った悲しみのあまり、頭に血がのぼって龍太郎を犯人だと勘違いしてしまったがために、こんな大事件が起きてしまったのだ。
となれば当然、自分にも大きな責任がある。
彼は何度もその非をわびた。
そして、改めて自分の素性を名乗り、長年ずっと仕えたいい主君を探していたところであるから、ぜひとも力を合わせて伊那丸さまを取り戻し、二人して天下のために尽くしたいと、心から龍太郎に頼み込んだ。
龍太郎も、頼もしい仲間ができたと喜んだ。
しかし、いざこれから八幡船の隠れ家を探そうとなると、それはまるで雲に隠れた時鳥(ほととぎす)を捜すようなものだった。
——もちろん、小文治にもいい知恵は浮かばなかった。
「こうなっては仕方がない」
 龍太郎はやがて、組んでいた腕の中から顔をあげた。
「お叱りを受けるかもしれないが、一度師匠のところへ引き返して、これからの作戦を相談するとしよう。それ以外に方法はない」
「して、その先生とおっしゃるお方は……?」
「京都の西、鞍馬の奥に住んではおるが、ある時は都に姿を現し、またある時は北国の山や、はるか南の海の果てにまで姿を見せるという、めったにいない凄腕のご老体なのだ。拙者の刀術も、気配を消す隠形の法も、すべてその老人から授かったものなのだ」
「鞍馬」と聞くだけで、すぐに天狗のような恐ろしい怪奇を連想してしまう土地柄だけに、この話を聞いた小文治は、ますますその老人のことが知りたくなった。
「龍太郎殿の先生とおっしゃる……その方のお名前は何とおっしゃるのですか?」
「本当の姓は明かせない。ただ、ご自分で『果心居士(かしんこじ)』という異名を名乗っておられる。
じつはこの度のことも、まったくその先生のご指示によって、織田や徳川が甲府攻めを企てると同時に、拙者は六部(旅の僧)に姿を変えて、伊那丸さまをお救いするために向かったのだ。
それがこのような大失敗に終わってしまっては、先生に合わせる顔もない有様だが、天下の形勢をその場にいながらすべて知り尽くす先生のことだ、きっとまた良いお告げを下さるに違いない」
「では、どうか私もご一緒にお供をさせてください!」
「異存はないが、先を急ぐ、早く支度をしてくれ」
 小文治が家に取って返すと、しばらくして、地味ながらもきちんとした旅の身支度を整え、大小の刀を差し、例の赤い柄の槍をかついで、再び戻ってきた。
「お待たせいたしました。小船は私の家の裏に繋いでおきましたから……」
 その言葉を聞いて龍太郎が進んでいくと、小船の上には一つの棺(ひつぎ)が乗せてあった。
武士として再び生きる門出にあたって、小文治は、母親の亡骸を静かな湖の底へ水葬にするつもりらしい。
その時、またもあやしい羽音が空に響いた。
はっとして二人が船の上から空を見上げると、大きな輪を描いていた怪鳥の影が、潮煙る遠州灘の彼方へと、一瞬の間に駆け去っていった。三

 みんな空を向いて、同じように、眉の上にかざした手をずっと当てがっている。
 頭に烏帽子をかぶった老人、旅の市女笠をかぶった女、侍に、百姓、そして町人まで――。さまざまな人々が集まって、何やら口々に話し合っている最中だった。
「一体全体、あんなところで何をしているのやら、不思議なやつじゃのう」
「もしかして、仙人でしょうか?」
「いや、天狗にちがいない」
「だって、こんな真昼のまっぴるまにさ」
「おや、よく見ると本を読んでいますよ」
「いよいよ本物の魔物と決まったな」
 この人たちは、いったい、何を見上げているのだろうか。
 ここは近江の国、比叡山のふもとにある坂本という場所で、日吉の森からすっとそびえ立った五重塔のてっぺん――まさにそのてっぺんに、みんなの視線がぐっと集まっていたのだ。
 なるほどこれは不思議で、これだけの人だかりができるのも無理はない。
 太陽のまぶしい光にさえぎられてはっきりとは見えないが、鶴のようにすらりとした老人が、五重塔のてっぺんに確かにいるようなのだ。
 しかも、目のいい人が言うには、あんなに高くて、普通なら登りようもない場所の上で、のんきに書物なんて読んでいるという。
「なんだ、魔物だって? どけどけ、そこをどいてみろ!」
「おっ、今度は為朝(ためとも)さまがやってきたぞ!」
 群衆はさっと左右に分かれて道をあけた。
「今為朝」と呼ばれたのはどんな人物かと見ると、背が高く、肌の色が少し浅黒い、二十四、五歳の立派な武士だった。
 黒い紋付きの着物の片肌を脱いで、手には、太陽の輪の模様が描かれた強そうな弓と、一本の矢をさかさまにしっかりと握りしめている。
「む、確かに見えるな……」
 そう呟きながら、五重塔のいただきをじっと見すえた武士は、ガチリと力強く、その矢をつがえ始めた。
「おや、まさかあれを弓で射るおつもりか?」
 まわりの人たちは面白そうに胸を高鳴らせ、ざわざわとどよめいた。
「この神聖な霊地へやってきて、こんな奇怪なまねをするなんてにっくきやつめ。もしかしたら、南蛮寺にいるキリシタンの仲間かもしれない。
どちらにせよ、ここでぶっ放して、世間の人たちへの見せしめにしてくれるわ!」
 弓の持ちかたも、矢のつがえかたも、さすがに見慣れた見事な手つきだ。
 それもそのはず、この武士こそ、坂本の町に弓術の道場を開き、遠く都にまでその名が鳴り響いている代々木流(よよぎりゅう)の遠矢(とおや)の達人、山県蔦之助(やまがたつたのすけ)という者なのだが、町の人たちは本名で呼ばず、伝説の猛者にたとえて「今為朝」とあだなしていたのだ。
「あんな矢の先に向かっては、とても生きてはいられまい……」
 人々が息をひそめて見守るなか、蔦之助は矢の端を弦にかけ、太陽にきらめく鋭い矢じりを空に向けて、ギリギリと満月のように力いっぱい引き絞った。
 しかし、塔のてっぺんにいる人物の姿は、下界のそんな大騒ぎなどどこ吹く風といった様子で、すましこんだまま微動だにしない。

四

「日吉の森へ行ってみなさい。

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