そして、百川の末に青々と澄んだ浪華の海には、山陰、山陽、五畿、東山の国々から、寄進された巨材や大石を積み込んだ大名の千石船が、おのおの舳先(へさき)に紋所の旗を立て並べ、満帆に風をはらんで、まるで船の陣形を組むように、四方の海から整々と入江へ向かって集まってくるのです。
なるほど壮観です。
秀吉の目が細くなります。若々しい希望の権化のような顔に、いっぱいの満足が輝いています。
先には北ノ庄を攻めて、一挙に柴田勝家の領地を攻略し、加賀へ進出しては尾山の城で前田利家と盟を結んで味方につけました。
永い間、何かにつけて自分の中途を妨げていた勝家は自害し、彼と策応していた信長の遺子・神戸信孝(かんべのぶたか)、勇猛な佐久間盛政(さくまもりまさ)、毛受勝介(めんじょうかつすけ)も、みな討ち死にしました。
伊勢の滝川一益(たきがわかずます)も、兜(かぶと)を脱いで降伏してきます。
破竹の勢いとは、今の秀吉のことでしょう。
京へ凱旋したのち、七本槍の連中をはじめ諸将の部下たちに至るまで、すべてに論功行賞を行った彼には、朝廷から従四位下参議(じゅうしいのげさんぎ)に補せられるという位官の沙汰が下りました。
毛利も人質を出して和を願い、丹羽も前田も甘んじて麾下(きか)に膝を屈しています。
こうなると、ひそかに虎視眈々(こしたんたん)としていた徳川家康も、もはや彼の前で意地を突っ張ってはいられず、石川数正(いしかわかずまさ)を戦捷(せんしょう)の使者に立てて贈り物を送ってくるのです。
秀吉はそこで、
(人間というものは、まあ、そんなものさ)
というような顔をしていました。
そして、遠くへ走らせていた目を、すぐ真下の作事場――内濠のところへ移すと、そこには数千の人夫や工匠たちが、朝顔の囲いのように縦横に組まれた丸太の足場で、「エイヤ、エイヤ」と声を合わせて懸命に働いている姿が見えました。「市松」
とつぜん、彼は床几(しょうぎ)に腰を落ち着け直して、
「また使者が来たぞ」と言いました。
「ほう、そうでございますか」
福島市松も加藤孫一も、みな主君の指さす方へ目を凝らしました。
見ると、なるほど、戦場のように混雑している桜門の方角から、ひとりの武将がふたりの従者を連れ、作事奉行・筒井伊賀守の家臣に案内されて、こちらへ向かってくる姿が小さく見えます。
「たしかに、見えてまいりましたな」
と孫一が言うと、片桐市正は、
「お上(秀吉)は、本当にお目ざとくていらっしゃいます」
と感服しました。
秀吉は、「当たり前だ!」と言わんばかりに胸をそらして、
「おろかなことよ。この秀吉の目には、日本の果てまで見えておるわ」
と笑いながら、見得を切ってみせました。
二
その使者と筒井の家臣は、仮に本丸を囲っている作事門の柵のところまでやってきました。
「門を開けい!」
「何者だ!」
番士たちは具足に身を固め、真槍や鉄砲を構え、戦場と少しも変わらない厳戒態勢です。
それもそのはず、作事奉行も棟梁も工匠目付も、四方を駆け回っている使番に至るまで、上は鎧に陣羽織、下は小具足といういでたちで、特に人夫を指揮する者などは抜刀して命令を下しているようなありさまでした。
「怠ける者は斬る」
これが築城現場のルールなのです。
したがって、ここの空気は、賤ヶ岳や柳ヶ瀬の合戦の緊張感と、少しも変わりがありませんでした。
「――作事奉行、筒井伊賀守の家臣、猪飼八兵衛である」
と大声で答えます。
「門鑑(通行証)を出せ」
「いや、これは徳川様のお使者でござる」
「徳川家の使者? して、何名だ」
「永井信濃守尚政と、付き添いが両名」
「その者たちの名は?」
「水野源五郎」
「うむ、徳川殿のお旗本だな。もう一名は」
「菊池半助」
「それだけでござるか」
「さよう」
「ごくろうであった」
案内の猪飼八兵衛は駆け戻り、送り届けられた徳川家の家臣三名は、槍の穂先が並ぶ門を通り抜けて控え所に通されました。
やがてその報告を受けた秀吉は、もう心得たものと、福島市松に出迎えを命じました。
市松は「ガチャッ、ガチャッ」と歩くたびに陣太刀が具足に当たる音を響かせながら、巨石で積み上げられた石段を降りていき、
「遠路浜松城よりお越しのお使者、ご苦労である。福島市松がご案内いたす。こちらへ」
と声をかけました。背後に目配せをすると、市松の無二の家来である可児才蔵が、
「いざ」
と三名の後ろにつき、主人と共に秀吉のいる本丸の庭へと上がっていきました。
(はてな?)
その途中、可児才蔵は、自分の目の前を歩く、少し縮れ毛のある男の襟元を見つめながら、
(どこかで見たことがある……)
と何度も首をひねって考えましたが、どうしても思い出すことができません。
徳川家の使者に随行している侍の横顔を覗き込むのは無礼ですし、怪しい者をやすやすと主君の前に近づけるのは、なおのこと不安な話です。
そこで、作事門からついてきた番士に、そっと耳を寄せて尋ねてみました。
「あの方だが、名はなんと申した」
「あの方ですか。確か、菊池半助と名乗りました」
「えっ、菊池だと?」
そうだ!
それで可児才蔵にも合点がいきました。
彼は徳川家の伊賀衆隠密組の組頭で、かつて自分が主命を受けて富士の人穴城の様子を探りに行った際、初めてその名を知った男だったのです。
(これはまずい! 油断のならない使者のお供だ)
彼がそう気づいた時には、もう秀吉の前に到着し、一同は横一列に並んでいました。
秀吉は、「やあ」と友人を迎えるように、いたって気さくに用件を尋ねました。
しかし、いくら気さくに接されても、なれなれしく扱われても、使者たちは体が固まってしまい、秀吉の「やあ」という挨拶に対して「おう」などと軽妙に応じることはできません。
「左少将さまには、いつもながらますますご健勝の様子、拝見いたし、かげながら主人・家康も祝着に存じ上げておりまする」
と形式ばった挨拶をすると、
「いや、ありがとう」
秀吉はとても優しい声で、
「体は忙しいおかげでますます健やかだ。それに、諸侯が寄進してくれた力のおかげで、どうやらわしの寝所もこのとおり、できかかっておるよ」
と言いました。使者の永井信濃守は、腹の内で密かに呆れました。
(秀吉は嘘ばかり言っている。これほど巨大な城が寝所であるはずがない。これはやがて、四国・九州はおろか、東海道の浜松も小田原も一気に飲み込もうという支度ではないか)
そう考えましたが、口に出すことはできません。
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