初級翻訳・神州天馬侠 第132話

吉川 英治

山掘夫たちは、山そのものにもてあそばれてしまったのです!
その時、穴に入る前はらんらんと輝いていた太陽は、もう西へ回って、朱色の盆のように赤くくすんでいました。

毒水に酔う砦

一

その高原の一角に立てば、群山をめぐる雲の海に、今まさに沈もうとしている太陽の金色の輪が、自分の視線よりもずっと低いところに見えるのでした。で――真っ赤な夕焼けの光に照らされた小太郎山の上、陣馬ヶ原(じんばがはら)一面は、不思議なほど美しい自然の風景に燃え上がっていました。
ミヤマスミレの濃い紫色、白リンドウの気高い花、天狗の錫杖(しゃくじょう)のようにまっすぐに並んで生える松の群生。かと思えば、オトギリソウやカヤの穂、さまざまな蘭の仲間たちが、まるで南蛮渡来の高級な絨毯を敷き詰めたかのように広がっており、澄みきった空気を乱さないほどの微風になでられていました。

「竹童(ちくどう)さーん、竹童さーん!」
やがて、誰かがそう呼ぶ声が響きました。
咲耶子(さやこ)でした。
彼女はいま、砦の二の丸から崖をよじ登り、この高原にたどり着いたのです。
「竹童さーん!」
両手を口にあてて、雲とも夕霧ともつかない白いもやに包まれた先へ向かって、声の限りに叫びながら歩き回りました。
返事はありません。
見慣れた景色ではありますが、そこにある美しい眺めも足元の花々も、今の咲耶子には何の魅力も感じられず、ただひたすらに姿が見えない竹童のことを案じていたのです。
今日の昼ごろまでは、砦の奥にある櫓(やぐら)で、昨日と同じように油断なく小太郎山を見張っていたはずなのに、いつの間にか櫓を降りたきり戻ってきません。
この四、五日のあいだ、小幡民部(おばたみんぶ)をはじめとする皆は、遠く三方ヶ原(みかたがはら)まで伊那丸の危急を救うために駆けつけており、砦は大事な留守番の時期です。味方の武士がこもっているとはいえ、決して油断はできないというのに、あの子は一体どこへ行ってしまったのでしょう。

「本当に、竹童さんはまだ子供なんだから。もう日が暮れようとしているのに、こんなに心配させるなんて」
咲耶子は不安に耐えかねたように眉をひそめました。
夕飯どきになっても遊びに夢中で帰ってこない弟を、父や母に怒られる前に見つけようとする姉のような、深い愛情が彼女の瞳に宿っています。
「竹童さーん……」
そうして、自分自身の身の危険を忘れて、一歩ずつ奥へと進んでいきました。
「もしかすると?」
露に濡れて重くなった草履のことも気に留めず、例の樺(かば)の林の方へ駆け出しました。
林の入り口付近の木々は薄い夕陽に赤く染まっていますが、奥の方はすでに宵のような闇が漂っています。
そこでもまた呼びました。五度、六度と飽きることなく名前を呼び続けました。
しかし、林の奥からは寂しい木霊(こだま)が返ってくるだけで、あの快活な竹童の「オーイ!」という返事は聞こえてきません。

「おや?」
咲耶子は妙な音を聞きつけて耳を澄まし、林の闇へ目を凝らしました。
何か非常に大きな力が木々を揺らしたように思えたのです。
我を忘れて樺の密林へ駆け込むと、そこには一本の大きな樺の木に、竹童が飼っている荒鷲がつながれていました。
飼い主の名を呼んだから羽ばたきをしたのだろう、と愛しく思えましたが、「あなたをかわいがっている竹童さんはどこへ行ったの?」と鳥に聞く術もありません。
咲耶子はすごすごとその場を去りました。
すると、大蛇の背中のような影が、笹を分けてザワザワと彼女につきまといます。それはかなり前から彼女の背後を狙っていたのでしたが、咲耶子はそれに気づいていませんでした。
林の道が三つに分かれているところへ差し掛かると、左右にも二人の人間がうずくまっていて、足音を聞くとともにムクッと動き出しました。

「誰だ!」
激しく叫び、キッと小脇差に手をかけて立ち止まると、甲虫のような茶色の鎧をつけた侍たちが、いきなり躍り出て左右から二本の槍を突きつけてきました。
「咲耶子! 静かにしろ」
「えっ、あなたたちは外曲輪(そとぐるわ)の番卒ではないか」
「馬鹿を言え。俺たちは大久保長安(おおくぼながやす)様から頼まれて、それとなく前から野武士を装い、この砦へ探りに入っていた黒川八十松(くろかわやそまつ)、団軍次郎(だんぐんじろう)という者だ。どうだ、肝を潰したか?」
「大久保長安? ……ということは、あなたたちは欲に釣られて敵の諜者に買収されたのですね」
「知れたことだ! 武田伊那丸は留守、小幡民部も出ていったこの砦は、もう空巣同然だ。入れ替わって今日からは、大久保石見守(いわみのかみ)様の旗印を掲げ、家康公のご支配となる。神妙に縄にかかれ!」
「なに、縄にかかれと?」
「ああ、甲府城まで連れてこいという石見守様の厳命だ。悪あがきをすると、この槍で血祭りにあげるぞ」
「黙れ! たとえ伊那丸様や一党の方々が留守であろうと、この咲耶子と竹童が留守を預かる以上、あなたたちに、のうのうと小太郎山を渡してよいわけがない。侍のくせに欲に目がくらんで味方を売る裏切り者、多くの部下への見せしめとして、この陣馬ヶ原で打ち首にしてやる!」
「生意気な!」
言い終わるか終わらないかのうちに、一人が突き出してきた長槍をかわし、咲耶子は手早く呼子笛を吹き鳴らしました。その時です――背後から忍び寄ってきた曲者が、咲耶子の喉首に飛びかかりました。
しかし、彼女もただでは屈しません。
裾野にいた頃は富士の山大名の娘として、胡蝶陣の神技を操り、猛獣のような野武士の群れを自由自在に動かしてきた咲耶子です。
相手の腕を掴み返したかと思うと、あざやかな身のこなしで、大柄な男を肩越しに投げ飛ばしました。

「うッ、おのれ!」
二本の槍が、風を切って十字の閃光を描きます。
咲耶子は口にくわえた呼子笛を、力いっぱい「ピピピピピッ……」と吹き鳴らしながら、陣馬ヶ原のお花畑へと走り出しました。

二

だが、懸命に吹いた呼子笛は、遠くの砦にいる味方を呼ぶよりも先に、周囲に潜んでいた悪魔たちを一箇所に集めてしまいました。
甲府の代官・大久保石見守が手を回して送り込んでいた裏切り者は全部で十二人。彼女が走り出す先、逃げようとする先へ、槍を構えて立ちふさがります。
砦の一の曲輪、二の曲輪には二千人足らずの味方の兵士たちが控えています。彼らにさえ知らせることができれば、この程度の裏切り者など難なく片付けられるはずですが、陣馬の高原と砦との間は、平地にして十町ほどの距離がありました。

咲耶子は、ともかく砦に近づいて、味方にこの急変を叫ぼうと焦りました。
追いかけてくる槍、横から突き出してくる槍の穂先を、蝶のように身を翻してかわしながら、白リンドウの花を蹴散らして駆け抜けます。
「あの女を二の丸へ近づけては一大事だ!」
追いまくる十二人の裏切り武士たち。その中でも剛力を誇る神保大吉は、九尺の長い槍をしごきながら、咲耶子の前へと先回りしました。

彼女の手には、一尺四、五寸の小太刀が光っています。
「からりッ」と、槍と小太刀が火花を散らしてぶつかり合いました。
小太刀で槍の柄を断ち切ることはできず、槍の白い穂先が肩をかすめて後ろへ抜けます。

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