ましてや今、天下に一寸の領土も持たず、頼れる城も一つとしてない伊那丸にとって、安全な道などどこにもないのです。どうせ敵地を踏むのであれば、忍剣の言う通り、徳川家の勢力が根を張る東海道こそが、小太郎山の砦に最も近く、地形も平坦で分かりやすいと言えるでしょう。
「では――そうしよう」
相談がまとまると、伊那丸は旅笠の紐をきゅっと締め直し、忍剣は禅杖(ぜんじょう)を握り直して、いざ出発しようとしたその瞬間のことでした。
頭上の高い場所から、山あいの風を揺らして三井寺の大きな梵鐘が「ゴウーン……」と余韻を長く引きながら、琵琶湖の湖面へと響き渡っていきました。
すると、その音と重なるようにして――これは一体何事でしょうか。逢坂山(おうさかやま)の森をかすめて、ピューッと凧が風を切るような音を立てながら、斜めに低く、まっすぐ高く、そしてゆっくりと、時には素早く旋回してくる怪しい影がありました。
――おお、空を舞い巡る怪物だ! それは丈余(じょうよ/約3メートル以上)もある巨大な鷲でした。
その時、日が暮れかかった春の夕空は、東側を深い青色に染め、西側の空は夕焼けで赤く染まり、ちょうど琵琶湖を境にして色が分かれている時間帯でした。空にかかった大鷲の影も、遠くの夕日を受けて金色の羽がキラキラと輝いて見えるかと思えば、またすぐに藍色の空に溶け込み、ただ恐ろしい一点の妖しい影へと姿を変えていきます。
「おお、あれはクロだ! 竹童(ちくどう)が探していた大鷲だ!」
禅杖を掲げて忍剣が声を張り上げると、龍太郎と伊那丸も目を丸くして見上げました。
「うむ! 間違いなくクロに違いない。寒松院の並木の方で狼煙(のろし)の音は聞こえてきたが、竹童はあのまま戻ってこない。もしや鷲に乗って、私たちを追いかけてきたのではないか?」
「そういえば、誰か乗っているようです――や、竹童だ!」
「なんだ、竹童が乗っているのか。おお、竹童――竹童ッ――!」
二人が声を限りに大空へと呼びかけましたが、鷲は木々の梢(こずえ)に触れるほど低く降りてきたかと思うと、またスッと別の方向へとそれていってしまいました。
すると、龍太郎が何かを見つけたのか、驚きの声を上げました。
「や、不思議です! あの鷲には、竹童だけでなく、もう一人の童子も乗っています。間違いなく二人の人間が乗っています」
「龍太郎どのの目にもそう見えたか。わしも同じことを思い、不思議に感じていたところだ。アレアレ、今度は湖の方へ一直線に駆け出していったぞ――」
目を凝らして見つめていると、さっそうとした怪しい影は、関の山から竹生島(ちくぶじま)のあたりにかけて、ゆったりと翼を広げて舞い踊っていました。その鷲の背に乗っていた両童子こそ、他ならぬ南蛮寺の丘から飛びかかって空へと舞い上がった、鞍馬(くらま)の竹童と、泣き虫の蛾次郎(がじろう)その人だったのです。
二
空の上の二人は、朝から今まで、互いに飲まず食わずの状態でした。
竹童は蛾次郎を鷲の背から蹴落とそうとし、蛾次郎は竹童を振り落として、自分ひとりでこの翼を独占しようとしています。しかもそれは、休みなく飛び続ける鷲の背中という、天空の上で行われている死闘でした。
一瞬の油断、わずかな隙さえあれば、鷲自身に振り落とされるか、あるいは相手の攻撃を受けてしまうような状況です。朝から何も飲まず食わずであることや、これから先も一滴の水も飲めないかもしれないことなど、そんなことは二人の頭にはありません。まさに真剣以上の、命がけの戦いなのです。それに、先に音を上げた方が負けというルールでもありました。
「やい、蛾次郎!」
駆け抜ける鷲の上で、そう叫んだのは鞍馬の竹童です。
「なんだ、竹童」
蛾次郎は、下界へ蹴落とされないことだけを考え、ダニのように鷲の首毛にしがみついていました。
「いいかげんに降参しろ。そしてこの鷲を俺に返せ。そうすれば命だけは助けてやる」
「嫌なこった。てめえこそ、低いところへ降りたときに飛び降りやがれ。そうすれば命だけは助けてやるぞ」
「この野郎、人の口真似をするな。おのれ、今にどこかで突き落としてやるから見ていろよ」
「手を離せば、人を落とす前に自分の体が仏さんになっちまうぞ。ざまあみろ、唐変木(とうへんぼく)、突き飛ばせるものならやってみろ!」
「おのれ、本気か!」
「くそうッ!」
そう罵り合う空の上の喧嘩です。両手を離して組み合えば、蛾次郎の言う通り、鷲の背から二人とも振り落とされてしまいます。そのため、片手ずつで相手を掴み合う形となりました。
蛾次郎は猫のように爪を立てて竹童の頬を引っかきましたが、指を噛みつかれたのでびっくりして手を引っ込め、今度は勢いよく相手の髪の毛を引っ掴みました。
「うむ、この畜生め!」
竹童は拳を固めると、相手の脇の下から顎(あご)を狙って二度ほど殴りつけました。しかし、蛾次郎も命がけです。唇を噛みしめて、必死に耐え抜いていました。「ちぇッ――強情なやつだ、降参しろ、降参しろ! まいったと言わないうちは、こうしてくれる!」
竹童の鉄拳が、目といわず鼻といわず、ポンポンと突きを入れてくるので、さすがの蛾次郎も、だんだんと顔から血の気が引いて、真っ青になってきました。
これが普段の蛾次郎であれば、泣き虫の本領を発揮してワアワア泣き声を上げているところですが、生死の境目に立たされているため、いつもよりはずっと強く耐えています。
鼻血をタラタラと流し、唇の色まで変えてもなお「参った」とは言わずに、
「ちッ、ちッ、畜生ッ!」
と叫ぶが早いか、竹童の腰に差してあった名刀『般若丸』に目をつけ、あっという間にそれを引き抜いて振りかぶりました。
雲の上で争う二人の童子を乗せて、鷲は今まさに、満々と水をたたえた琵琶湖の上をめぐっています。
夜の海月と火の百足
一
果てしなく舞う大鷲の背中で、果てしなき二人の童子の争闘が繰り広げられます! 蛾次郎は敵の剣を抜き取って振りかぶり、竹童はその手首をひっつかんで、「やわか!」とばかりに般若丸の柄をもぎ取ろうとします。
黒い髪が乱れ飛び、これが大地の上であれば、まさに組み伏せ組み伏せの死闘です。
蛾次郎が勝つか? それとも竹童か。
雲の上で命を懸けた、必死の戦い。二人とも必死です。
しかし、大鷲の神経は、火花を散らすようなそんな激闘が背中で行われていることなど知らぬかのように、悠々と翼を回しています。比叡の峰や四明ヶ岳の影をかすめたかと思えば、たちまち湖面の波を白くかすめ、伊吹山の上をめぐり、彦根の岸から打出ヶ浜へと戻っていきます。
先ほどから三井寺の丘のふもとに立ち、固唾をのんで見つめていた伊那丸と忍剣、龍太郎の三人は、その巨影が目前にまで近づいた瞬間に、
「あッ――竹童!」
と声を揃えて叫びました。しかし、いかに彼らの危難を知ったところで、助け舟を出すこともできません。鷲はまた、バッと山影に突き当たって翼を返し、広い琵琶湖の上を高く低く舞い始めました。
そう思うと――一瞬のうちに、鷲は異様な羽ばたきをして、糸目が絡まった凧のようにクルクルと狂い始めました。
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