いつもの図太さはどこへやら、顔色は真っ青です。
「おお、裾野の見張り役の婆さんではないか。大変とはなんだ、どうした?」
一斉に色めき立つ人々を見回しながら、蚕婆は歯をむき出しにして怒鳴りました。
「なんだもかんだもあるものか! 早く、早く門を閉めなきゃ大変なんだ。今、私の後ろから忍剣(にんけん)と小文治(こぶんじ)というやつらが追いかけてきているんだよ!」
「なんだと? 伊那丸の旗本が追いかけてくるだと? それは、ここへか? こっちへ向かっているのか?」
「細かいことを言っている暇はないよ! ほら、あの足音がそうだ! 聞こえるだろう!」
「それっ、みんな、早く門を閉めて厳重に固めろ!」
「うわっ、もうすぐそこまで姿が見えたぞ!」
「閂はどうした!」
「鎖をかけろ! 鎖を!」
「わーっ、わーっ!」
突然、嵐に備えるかのようにパニックになった手下たちは、扉に手をかけて、ドーンという大きな音と共に間道門を閉ざしてしまいました。
「無念……!」
門の外で、二人の声が響きました。
ああ、たった一足違い――。
蚕婆を追い詰めて、人穴城の隠し道を極めてきた忍剣と小文治は、このまま城内へ斬り込んでやろうと勢い込んでいたところを、中から固く閉ざされてしまい、地団駄を踏んで悔しがりました。
「卑怯なやつらめ、臆病者め! たった二人の敵を相手にすることもできぬのか。和田呂宋兵衛の手下には、男らしいやつは一人もいないのか! 悔しければ開けろ、開けろ!」
さんざんに罵りましたが、外で怒鳴れば内側からも怒鳴り返してくるばかりで、キリがありません。
「ええい、面倒だ!」
手慣れた禅杖(ぜんじょう)を振りかざした加賀見忍剣。同時に巽小文治も、「よし、拙者はあそこから飛び込んでやる」と、槍を立てかけて足がかりにし、十数尺(約三メートル強)上ののぞき口へ、必死の覚悟で飛びつこうと試みました。
グワーン!
たちまち、雷を落としたような音がして、鉄門が震えました。忍剣の渾身の一撃です。この鉄の扉が破れるか、禅杖が折れるかというほどの衝撃。続いて第二撃、第三撃!
門の内側では、呂宋兵衛をはじめ丹羽昌仙、轟又八(とどろき またはち)、そして燕作や蚕婆、多くの手下たちが思わず肝を冷やし、ただ「あれよあれよ」と驚いて見ているうちに、あの頑丈な鉄壁が、まるで飴のようにゆがみ始めました。
まさに、人穴城の一大事です。
呂宋兵衛は顔を真っ青にしました。手下たちも、見えない敵の恐怖に震え上がりました。こんな猛者が二人も飛び込んできた日には、たとえ城内に二千人の野武士がいようとも、どれほどの死傷者が出るか知れたものではない――そう誰もが悟りました。
「なにを怖気づいている! 意気地なしどもめ!」
不意に、その中で思い出したように怒鳴ったのは、轟又八でした。「すこしも早く、水道門の堰(せき)を切って、間道の中へ濁水を注ぎ込め! そうすれば、いかなる天魔鬼神であろうと、中のふたりが溺れ死ぬのは当然のこと。しかも、味方にひとりの怪我人も出さずに済むわ!」
あっぱれ名案だと、誇らしげに命令を下すと、手下どもが「おう!」と答えるより早く、
「いや、それは断じていかん!」
と激しく異議を申し立てた者がいました。軍師の丹羽昌仙(にわ しょうせん)です。
彼とは常に犬と猿のように仲の悪い轟又八(とどろき またはち)は、すぐさま眉をピリッとさせて言い返しました。
「こういう時の備えのために、いつでも水道門の堰さえ切れば、間道はおろか裾野一帯が満々と水浸しになるよう仕掛けておいた計略ではないか。軍師殿、なぜお止めになるのだ?」
「愚かなことを問うな。それ、溺兵の計略とは、一城の危急存亡にかかわる最後の手段。たったふたりの敵を殺すために、なぜそこまでの浪費をしようか」
「心得ぬ軍師の言い分だな。では、みすみす間道門を破られて、ここに多くの手負いを出そうとも、大事はないと言い張るのか?」
「なぜ昌仙が、それまで手をつかねて見ていようぞ。拙者には別の計略がある。又八殿は、それにてゆるりと見物しているがいい。やあ者ども、この鉄門の前に枯れ草を積み上げよ!」
たちまち、山と積まれた枯れ草の束。運ばれてくる獣油の瓶、担ぎ出された数百本の松明。
洞門の中では、そんなこととは知らず、忍剣と小文治が必死にあえいでいました。
すると――いきなり、バラバラバラ、バラバラッ! と上ののぞき口から枯れ草の束が投げ込まれました! 続いて焔のついた松明と、獣油の雨。火はたちまちパッと枯れ草に燃え移りました。
いや、ふたりの袖や裾にも火がつきました。
火を消そうとし、払い除けようとしますが、間道の中にこもりだした煙は防ぎようがありません。
しかも異臭を放つ獣油の黒煙が、出口を失って渦を巻き、ふたりを包み込みました。
目からは渋い涙がこぼれ、鼻腔は突き刺されるように痛く、喉は乾いて声さえ出ません。
……そこにしばらくもがいていれば、煙に巻かれて窒息するのは当然です。
ふたりは歯ぎしりをしながら、煙に押し出されるようにして、次第次第に後戻りしました――といっても、充満する煙の底を這いながらですが……。
間道の半ばを過ぎたあたりまで戻ってきたころ、ふたりはやっとどうにか薄目を開けて、互いに言葉を交わせるようになりました。
「やあ、小文治殿、どうやらここは先刻進んでいった間道とは違うようではないか」
「拙者も少し変に思ってはいるが、確か行きがけには、他に横穴などないように心得ていた」
「しかし、このように両側が狭い穴ではなかったはず……はてな? こりゃ少しおかしい……」
「忍剣殿、また煙の渦が流れてきた。とにかく、戻れるところまで戻ってみよう」
「せっかく人穴城の根元まで押し寄せたのに、煙攻めの策にかかって引き返すとは無念千万……ああ、また真っ黒に包み込まれてしまった」
「ちぇっ、いまいましいが、もうここにもぐずぐずしてはおれんわ」
さすがの勇士も、煙の魔軍には勝つ術がありませんでした。
息詰まる苦しさと、目にしみる涙をこらえながら、一目散にその穴を走り戻りました。
からくも、先ほど入った床下へたどり着きました。
間違いなく、蚕婆(かいこばば)の家の下に違いありません。
途中の道が違っているように思えたのも、そうであれば、煙による錯覚だったのかもしれません。
「こりゃ部下の者、この板を退けて、綱を下ろせ! 早く、早く!」
小文治が槍の石突きを上へ向け、蓋の板を下からポンポンと突き上げました。
すると、入り口で待ち構えていた部下の者でしょう、板を剥がして、二本の綱を無言のまま下へ垂らしてきました。
それを頼りに、忍剣と小文治は、ひらりと上へとびあがりました!
――上がった場所は真っ暗でした。
誰かが、カチカチ……と火打石を打ち鳴らしています。
部下は二十人ばかり、ここに置いていったはずなのに、やけに辺りが静かです。
カチッ、カチッ、カチッ……火打石はなかなか火がつきません……。
「たわけ者め!」
忍剣は、部下の不用意を叱りつけました。
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