初級翻訳・神州天馬侠 第173話

吉川 英治

半助の姿はますます加速していき、ついには小姓たちの目にも、遠くから眺めている人々にも、それが半助なのか、一枚の黒い布がつむじ風で回っているのか、ほとんど目にも留まらないほど迅速になりました。
そして、すべての者の視線が奪われている間に、今まで一方に立っていた木隠の姿がこつぜんと消えてしまいました。
「や、さては」
と小姓の面々がハッと身を固めると、八門の陣の一方に白いものがヒラリと踊りました。
「それ!」
と、心持ちそのほうへ一同の体がズズッと寄り詰めると、とんでもない! そこへ散ったのは数枚の懐紙(ふところガミ)でした。みんなの視線がそれに乱されて散らかった瞬間、陣の中宮にいた星川余一が、風で顔に貼りついた一枚の白紙を片手で取りのけながら、
「あッ、しまった!」
と、とんきょうな声を上げました。

五

余一の声に驚いて、万千代もひょいと狼狽(ろうばい)しました。
とたんに、だれかが彼の肘(ひじ)を足元からトンと突きました。
「あッ」
と言ったが早いか、肘を突かれた弾みに、赤い鞠は彼の掌を離れてポンと飛び上がりました。
そこへ、烏猫(からすねこ)のような人影がいきなり飛びかかったかと思うと、
「えいッ!」
と、ほとんど同時に耳を打つ二声の気合い。
陣を崩した小姓組の者をいつの間にか飛び越えたのでしょう、木隠は白球を手に、菊池半助は紅球を手にして、最初の位置に立っていました。
忍法試合「紅白鞠盗(まりぬす)み」の勝負は、一瞬の出来事でした。
この鞠盗みは、伊賀流と甲賀流の者が、かつて織田信長の存命当時、安土城で試合をしたこともあり、それ以前には仙洞御所(せんとうごしょ)の庭先で、公卿や貴族の前で天覧に供したこともありました。のちには公卿たちのあいだで、これを蹴鞠(けまり)に見立てた遊戯としてさえ残ったほどです。
さて。
余事はともかく、今の試合はどちらに軍配が上げられるのでしょうか。
もちろん、検証役の鐘巻一火は床几から立ち上がって、
「同点。
忍法試合、勝負なし!」
と鉄扇を振るって、奉行目付へ告げました。
観衆にも、それに異議を唱える者はいませんでした。
菊池半助は、勝負がつかずに分かれたことに無念そうな白眼を相手に投げかけ、双方は無言のまま睨み合いました。
「わーッ……」
と、崩れるようにして退場したのはお小姓とんぼの一団です。
万千代をはじめ余一その他の者たちは、試合が終わると一斉に元の幕の内へ引き上げていきました。
そして、遠雷のような群衆のどよめきが、しばらくの間、空に消えませんでした。
――と思うと、すでに二番試合の合図が、息もつかせずとうとうと鳴り響き、清新な緊張と、前にも増した厳粛な空気をその場にシーンと満たしました。
見れば。
片肌を脱いだ凛々(りり)しい二人の射手は、もう支度の整った場所に身構えを作り、弓懸(ゆがけ)を締め、呼吸を整え、左手に与えられた強弓を取って、合図を今か今かと待ち受けています。この遠矢くらべは、番えた矢のほかに代えの矢などない、一本勝負の重要な競射である。
的はどこにあるのか。
おお、その的として示された場所は、あまりにも遠方であった。
じっと目をこらさなければ、どこに何があるのか定かではないほどである。谷を隔てた前方に、さほど高くはない峰がそびえている。その「白鳥の峰」の七合目あたりに、古い丸太の鳥居が見える。
鳥居は、人里離れた白鳥神社奥の院の印であり、そこまでは誰の目にも明らかだが、遠矢の的として指定されたのは、その鳥居の正面にかかっている額であった。
御岳の中腹を下り、渓流を越え、沢を渡り、向こうの白鳥の峰の七合目まで行くには、おそらく二十八、九町(約三キロメートル)の道のりであろうが、この御岳の一端に立って直線に対峙すれば、その数分の一の距離であろう。
しかし、狭い山と山の間には、風がないような日であっても、常に冷たい気流が流れている。よほど腕の立つ射手が、よほど完璧な矢を放たない限り、その気流に逆らって的に当てることなど不可能だろう。
そんなふうに、弓道に心得のある見物人たちは、早くも各藩の控え所でさまざまな噂話を交わしている。
だが、射手たちには十分な自信があるのか、やがて作法通りに厳かに弓を構えると、徳川家方の射手・加賀爪伝内(かがづめ でんない)と、伊那丸方の山県蔦之助(やまがた つたのすけ)は、ゆっくりと足を踏み開いた。そして、矢を番えてガッキリと弦にかませると、白鳥の峰の樹間に見える大鳥居の額を、鋭い眼光で射抜くように見据えた。

幕裏にひそむ妖術師

一

山県蔦之助は、誰もが知る代々木流の達人である。
大津の町に弓道の道場を開いていた頃には、八坂の塔の怪人を射る以前から、「現代の為朝」と称えられていた人物だ。
また、かつて竹童が大鷲クロの背を借りて、鞍馬の僧正谷から高尾山へ向かう途中にも、彼の誤解を受けて、その恐ろしい強弓から放たれた矢に見舞われ、危うく地面に叩き落とされそうになったことがある。
その代々木流の腕前を披露することも、蔦之助にとっては久しぶりのことであった。
弓を引く者は、長く弓を持たずにいると病気になるとさえ言う。
蔦之助も、めぐり合わせでこの晴れ舞台に立ち、いま、鏑籐(かぶらとう)で日輪が巻かれた強弓にピッタリと矢筈(やはず)をかませた瞬間、なんとも言えない爽快な気持ちが胸いっぱいに広がった。
カッと遥かな的を見据え、弓の弦を左右に押し広げ、キリッ、キリッと静かに引き絞っていく。
河内流の加賀爪伝内も、徳川家では優れた射術家らしく、立派な構えだ。蔦之助のそばに立っても、その構えに見劣りするところはない。
引き絞られた弓と射手の体が、まるで一体となって重なるように見え、矢の先が弓の枠をはみ出すほどに限界まで力を込められたその瞬間――。
声を飲み込み、辺りはひっそりと静まり返った。場の内外は誰もいないかのようにどよめきが消え、息が詰まるような空気が満ちていた。
すると一人、矢来(やらい)の外にいる群衆の中で、
「民部(みんぶ)、困ったことになったものだな」
と、ささやく者がいた。
先ほど、竹童が鷲にさらわれて走ったのをきっかけに、止める間もなく一党の者たちが矢来を越えて騒ぎを起こしたため、その成り行きを案じている武田伊那丸と小幡民部の二人である。
民部も、的から目を離さずに言った。
「ただ、天の助けを祈るほかございませぬ」
「……いまとなっては、もう手を下す術もない」
「若君」
民部は、強いて伊那丸の不安を励ますように言った。
「……お案じなされますな。たとえ、いかなる波瀾が起ころうとも、彼らのことですから」
「うむ……」
「彼らのことです。彼らのことでございます。決して、汚名をさらすような結果を招くことはいたしますまい」
そうは言ったものの、彼自身も人知れず手に汗を握りしめていた。
――と、目を見開く間もなかった。
大勢の口から「あッ……」と軽い声が漏れたかと思うと、すでに絞りきられた二張の弓がブンと弓返りを打ち、ヒョウッと弦を離れた二筋の矢が、風を切って真っ直ぐに走っていくのが見えた。
「やッ?」
その瞬間、射手の山県蔦之助は、弦を放した右手をそのままに、サッと顔色を変えてしまった。

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