その名刺をポケットに入れながら、私は内心でガッツポーズをしました。
「早川」というのは、九大医学部の寺山内科にいる医学士の医員で、記者仲間の間では有名な女好きとして知られていた男です。
その背後には姉歯という産科医がいて、彼が何か裏で糸を引いているという噂まで耳にしたことがありました。
また「時枝ヨシ子」といえば、同じ大学の眼科にいる有名な美人看護婦ではありませんか。
……二人の関係は二、三ヶ月前にチラリと聞いたことがありましたが、評判の美人と女好きの組み合わせだけに、適当な噂だろう……などと余計な推測をしていたのが間違いでした。
「もうここまで深い仲になっていたのか……」と考えながら、今度は脱ぎ捨てられた下駄を裏返してみると、まだ卸したてでピカピカの状態でした。福岡市の大浜竪町にある金佐商店の商標が貼ってあり、かかとの部分には「※」の刻印が打ってあります。
次にビーズのバッグを開いてみると、新しいハンカチが二枚と、六円二十何銭か入ったがま口、そして少しばかりの化粧道具が入っていました。その底の方から、柳川ヨシエという名前が書かれた質札が二枚出てきました。
お召のコートに羽織、ガス(生地の名前)の矢絣の単衣、そして女性用のプラチナの腕時計。これら四点を合計十八円で、昨日と一昨日の二日に分けて、筥崎の馬出にある三桝質店に入れたようです。
私はまたその質札をポケットにねじ込みながら、二度目のガッツポーズをしました。
……これだけのネタを掴めば、三段や四段の特別記事が書けないはずがない。俺は新聞記者だぞ……もちろん警察や同業者が手出しできるような話じゃない……シメたぞ……と奥歯を噛み締めながらも、何食わぬ顔で頭を上げ、周囲を見渡しました。
私の周りには、二、三人ほどの田植えをしている人たちが、おびえた顔をして立っているだけでした。
一気に筥崎駅へ駆け込んだ列車の窓からは、乗客の顔が鈴なりに突き出ていて、そこから飛び降りた二、三人の制服姿の駅員たちが、線路伝いに走ってくるのが見えます。
そのほかにも、サーベルを下げた警官らしい姿が、遅れてホームから駆け降りてくるようですが、まだ四、五百メートル先のことなので、私の顔を見られる心配はありません。
私は靴の底にベッタリとついた女の血を、ヨモギの葉で拭いながら悠々と立ち上がりました。
はるか向こうの青田の中に落ちたパラソルを見返すこともせず、今しがた女が歩いてきた畦道にある下駄の跡を一つひとつ踏みつぶしながら、平気な顔で工学部の前へ戻りました。
どんどん増えていく線路の人だかりを横目で見ながら、手近な法文科の門をくぐり、学生たちがうろついている地下室を通り抜けました。人通りの少ない海門戸に出たところで、ようやく上着を脱いで汗を拭いました。
ここまで来れば、もう捕まる心配はありませんから。ついでに腕時計を見ると、ちょうど十時半だった。
……夕刊の締め切りまで、あと二時間半きっかり。その中で記事を書く時間をざっと一時間と見ると……質屋にまわり込む時間はまずあるまい。プラチナの腕時計がちょっと怪しいとは思うけれど……。
……色魔の早川や、黒幕の姉歯にも会わない方が上策だろう。わざわざ泣き付かれに行くようなものだからな。
一つ、抜き打ちを食らわせて驚かしてやろう。
……帰り着くまで降り出さなきゃいいが……。
と腹の中で計算をつけながら、とりあえずパイプをくわえてマッチを擦った。
それから数時間後、私は今川橋行きの電車の中で、福岡市にある二つの新聞社の夕刊を見比べてほくそ笑んでいた。
ほかの新聞には「またも轢死女」という小さな見出しで、身元不明の若い女が列車に轢かれたという五行ほどの記事があるだけで、妊娠の事実すら書かれていない。それに対して私の書いた記事は、一番大きな文字の三段抜き見出しで、浴衣姿の早川医学士と、丸髷(まるまげ)に結った時枝ヨシ子の二人が並んで写っている鮮明な写真まで載せて、次のような長い記事が掲載されていた。
▼見出し……「田植えの人々の目の前で……妊娠美人が鉄道自殺……けさ十時ごろ、筥崎(はこざき)駅付近で……相手は九大名うての色魔……女は佐賀県随一の富豪……時枝家の家出娘」……「両親へ詫びに帰る途中……思い詰めたものか……この悲劇」……
▲記事……(上略)……時枝ヨシ子(二十)が東京にあこがれて家出をしたのは、四年前のことだったが、なぜか東京へは行かずに博多駅で下車し、福岡の知人を頼って九大の眼科に看護婦として入り込んだ。
これを聞いたヨシ子の両親は非常に腹を立て、直ちに勘当を申し渡したとのことだが、美人の評判が高いまま、あらゆる誘惑と戦いつつ、無事にこの四年間を務めてきた。
……(中略)……さすがの色魔、早川医学士(三十)もヨシ子と関係して、現在の大浜の下宿で一緒に暮らすようになってからは、人が変わったように素行を慎んだばかりでなく、得意のビリヤードさえもやめてしまい、ひたすら彼女との恋に打ち込んでいるように見えた。
彼女ヨシ子の早川に対する愛着が、それ以上であったことは言うまでもない。
……(中略)……こうして妊娠七ヶ月になったヨシ子は、早川医学士と、その友人で、かねてから二人のことに就いて何くれとなく心配していた姉歯(あねは)某とが、必死に止めるのも聞かず、こっそり旅費を工面して、人目を避けつつ、単身で佐賀の両親のもとへ行くべく決心した……(中略)……わざと博多駅より二つ手前の筥崎駅から、佐賀までの切符を買ったが、その列車を待っている間に、自分の行く末を考えて極度に運命を悲観したのか、遂に自分が乗るはずだった下り四二一号列車の車輪の下となって、かくも無残な……云々……
ここまで読んでくると、私は内心大得意な気分で顔を上げ、電車の中を見回した。
あてもない咳払いを一つして、胸をそらした。
ところがその翌日のこと……。
昨日取り損ねた九大工学部の記事を拾いに行くべく、今川橋の下宿から電車で筥崎の終点へ向かう途中、医学部前の停留場を通過すると、職業柄親しくしている筥崎署の大塚警部が飛び乗ってきたので、後ろめたいことがある私は少しドキリとさせられた。
大塚警部は私よりも十五、六歳ほど年上で、二、三度一緒に飲みに行ってからは、同輩のように付き合っている。
かなりずる賢いところのある男だが、ほとんど空っぽの電車の片隅に私の姿を見つけると、びっくりした顔をしながらスタスタと横に来て、二十貫目(約75キロ)あるという大きな体をドタリと降ろした。
それからサーベルを股の間に挟み、帽子を斜めにかぶって、赤い顔の汗を拭き拭き、ひどく緊張した表情で内ポケットから新聞を引き出すと、無言のまま私の鼻先に突きつけた。
見ると、私が書いた昨日の夕刊記事のすべてに、毒々しい赤線が引いてある。
私はわざとニッコリしてうなずいた。
その私の顔を、大塚警部は苦々しく白目で睨(にら)んだ。
「困るじゃないか……こんなことをしちゃ……僕らを出し抜いて……」
「フフン、何もしてないよ。工学部の正門に入ろうとしたら、鉄道線路の上に真っ黒な人だかりがしていた。
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