それから、近くに生えているのを順々に摘んでいきました。
だんだん菫の紫の花が、良寛さんの手の中で増えていきました。
「まだ、ここにもある。ほい、まだあそこにもある」
きりがありませんでした。
良寛さんは菫摘みに夢中になって、時の経つのを忘れていました。
やがて、両手に余るくらい花がたまったとき、腰が痛くなった良寛さんは立ち上がり、いつの間にか空が日暮れの茜(あかね)に染まっているのを見ました。
「ほい、もう日暮れじゃ。どうやら風も冷たくなった。こりゃ急がねばなるまい」良寛さんは、前かがみになって、野道を急ぎ足で歩いていきました。
間もなく一つの村に入りました。
村には静けさの中に、なんとなく夕暮れの物音と、慌ただしい気配がこもっていました。
良寛さんが通る生垣には、今夜そこに宿を求めるスズメたちが、まだ落ち着かない様子でバタバタと羽音を立てていました。
良寛さんは、子供を探していました。
子供たちに、摘んだスミレを分けてやりたかったのです。
土塀を叩きながら、一人の男の子が向こうからやって来ました。
「坊や、スミレの花をあげようか」
と良寛さんは言って差し出しました。
子供は良寛さんをよく知っていました。
いつもよく遊んでくれる、心の優しいお坊さんです。
しかし今はもう夕暮れ時でした。
子供は家が恋しく、お腹も空いていました。
「スミレなんかいらないよ」
子供はそう言って通り過ぎていきました。
良寛さんは、また別の子供を探しました。
すると間もなく、赤ん坊をおぶった子守娘が向こうからやって来ました。
赤ん坊が泣くので、自分も泣きたいような顔で、子守歌を口ずさみながら歩いていました。
「スミレをあげようか」
と良寛さんは言って、またスミレを差し出しました。
昼間なら、子守娘は良寛さんと手毬をついて遊ぶ仲です。
けれど今は夕暮れでした。
それに背中の赤ん坊が泣いていました。自分も泣きたい気分だったのです。
「良寛さん、いりません」
泣き声でそう言って、子守娘は通り過ぎていきました。
良寛さんは、その後も三、四人の子供に出会いました。
出会うたびに、スミレをあげようと声をかけました。
そして、どの子からも「いらない」と言われました。
良寛さんはもう諦めて、スミレの花束を両手に持ったまま、山の中にある庵(五合庵)へ帰ることにしました。
――それにしても、なぜ私はこんなことをしたのだろう。
こんなにスミレを摘んで、一人ひとりの子供にあげようなどと……。
良寛さんは、もう夕闇で黒く見えるスミレの花を見ながら考えました。
けれど、はっきりとは分かりませんでした。
良寛さんは、とぼとぼと五合庵の方へ歩いていきました。
足がとても重く感じられました。
――子供たちは、日暮れになるとみんな勇んで家へ帰っていく。
しかし、わしは自分の家へ帰るというのに、ちっとも楽しくはない。
わしの家には、誰もわしを待っている者がいないからだ。
そう思いながら、寂しい山道を登っていきました。
柴の折戸をギイッと開けて、良寛さんは五合庵の中に入りました。
中は暗くなっていました。
そして、ことりとも音がしませんでした。
――やれやれ、暗くなっても誰も明かりをつけない。
これがわしの住まいか。
わしはこんなところに住んでいたのか。
良寛さんは、草履を脱いで中へ上がると、行燈(あんどん)に火を入れる気力もわかず、スミレの花束を膝にのせたまま、ぼんやりと座っていました。
間もなく、外に足音がして、誰かが庵にやって来ました。
「良寛さん」
「おお、どなたかのう」
良寛さんは人の声を聞くと、急に元気が出て立ち上がりました。
入ってきたのは、顔見知りの百姓でした。
「これ、良寛さんの鉢じゃありませんか」
「おお、わしのじゃ」
良寛さんはスミレの花を摘んでいるうちに、その鉢を野原に忘れてきてしまったのでした。
「やっぱりそうでしたか。どうも見たことのある鉢だと思いましたら、やっぱりそうでしたか」
「ありがとう、これはどうも。スミレを摘んでいて忘れてきてしまった。まあ、上がっておくれ」
良寛さんは、百姓を無理やり部屋へ上がらせました。
そして行燈に火を入れ、お茶を沸かしました。
「まだ夕飯前ですから、ゆっくりはできませんが」
「まあまあ、そう言わんで。冷や飯でよければ、わしのところにもあるから食べていきなさい」
良寛さんは、しきりに百姓を引き留めたがりました。
百姓は五合庵の中を見回して言いました。
「良寛さんは、こんなところで毎日毎晩暮らしていて、よくも寂しくないものですね」
「ああ、それさ。わしも今外から帰ってきて、つくづく自分でもそう思っていたところさ。こんなところによく一人でいたもんだと思ってのう」
「島崎村の木村の旦那が言っておられましたよ。あそこの屋敷の中に小さい離れがあるそうで、よかったら良寛さんに住んでもらいたい、と」
「うん、わしも旦那から聞いていた」
「ぜひ、木村の旦那のところへ行かれるのがいいですよ」
「うん、ありがとう」
お茶を飲むと、百姓は帰っていきました。
百姓がいた間は心が楽しかった良寛さんでしたが、一人になるとまた沈んでしまいました。
――なぜ、こんななのだろう。
今ははっきり分かった。
良寛さんは人が恋しいのだ。
一人でいるのは寂しいのだ。
――若かった日、わしは寂しさに耐える修行をした。
どんな寂しさでも平気でいられるように努力した。
そしてあの時分は、それもできた。
しかし、年をとったのか、わしはまた寂しさが我慢できなくなってきた。
結局、わしは一人ぼっちではいられない、弱い人間なのだ。良寛さんは、麓(ふもと)の村の様子を見ようと、外へ出ていきました。
空には、まだ少しだけ明るさが残っていました。
その明るい空の下を、一羽の群れからはぐれた鳥が西の方へ飛んでいきました。
群れに遅れた一羽が、置いていかれまいと、一生懸命に追いすがっていく姿が見えました。
そしてすぐに、その姿は見えなくなってしまいました。
――私たち人間も、あの鳥たちと同じだ。
良寛さんはそう思いました。
――私たち人間も、一人ぼっちでは生きていけないのだ。
みんなが一つになって、お互いに助け合いながら生きていくものなのだ。
何ということもなく、良寛さんの目からは涙がこぼれました。
そして、涙でうるんだ目を下に向けると、平野に並ぶ家々の小さな明かりが、あちらこちらで寄り添うように集まって見えました。
――わしは、あそこへ行こう。
島崎村の、わしを迎えてくれると言ってくれたあの家を頼って行こう。
群れに遅れたあの小鳥のように、わしも人々の輪の中へ追いすがっていこう。
良寛さんの目からとめどなく涙があふれ、平野の家々の灯火は涙でぼやけて、一つに重なって見えました。
(この本の終わりに)
私が話したかったことは、これでだいたい終わりです。
さて、みんな、私がこの本の最初に出しておいた「宿題」を思い出してくれますか。
それはこういう問いでした。
「良寛さんの、どこが偉いのか」
みんなに、良寛さんの偉さが伝わったでしょうか。
もし伝わったなら、私にとってこれ以上嬉しいことはありません。
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