初級翻訳・久助君の話 第2話

久助君の話

しばらくの間、久助君は冗談のつもりでじゃれ合っていました。相手もそのつもりでやっていると思っていました。
ところが、そのうちに久助君は一つの疑問にとらわれました。どうも相手は、本気になってやっているらしいのです。
久助君を自分から引きはがそうとするとき、久助君の胸をつく力が、冗談半分のときとは明らかに違います。
また、久助君を上から押さえつける相手のやせた腕が、ぶるぶると震えています。冗談半分なら、そんなことはないはずです。

相手が本気なら自分も本気にならなきゃいけない、と久助君はそのつもりで一生懸命やりだしましたが、そうするうちに、まもなくまた次の疑問がわいてきました。
やっぱり、兵太郎君は冗談半分でじゃれ合っているみたいです。
久助君の手が、あやまって相手のわきの下から、熱っぽい胸元にもぐりこんだとき、兵太郎君はクックッと笑ったからです。
相手が冗談でやっているのに、自分だけ本気でやっているのは男らしくないから、自分も冗談のつもりでいよう……そう思うと、またすぐ前の疑問が頭をもたげます。
二つの疑問が交互に現れたり消えたりしましたが、二人はともかくじゃれ合い続けました。

久助君は顔を干し草に押しつけられて、干し草を口に入れてしまったり、干し草があると思ってひっくり返った場所に草がなくて、頭を直接地面にぶつけて、頭じゅうがジーンと鳴り響いて熱い涙が浮かんできたりしました。
また、手足が複雑に絡まり合っているときは、自分と相手の足の区別がつかなくなって、相手の足をおさえつけたつもりで自分のもう一方の足をおさえつけていたりもしました。

取っ組み合いは、夕方まで続きました。
帯はゆるみ、着物はだらしなくなり、二人は汗でじっとりとしていました。
何度目かに久助君が上になって兵太郎君を押さえつけると、もう兵太郎君は抵抗しなくなりました。
二人は、しいんとなってしまいました。
二町(約二百メートル)ばかり離れた道を通るらしい車の輪の音が、カラカラと聞こえてきました。
その音は、まるで初めて聞いたこの世の物音のように感じられました。
その音は、もう夕方になったということを久助君に知らせました。
久助君は、ふいと寂しくなりました。遊び疲れたあとに、いつも感じる寂しさです。
もうやめようと思いました。
けれどもし、これで立ち上がって兵太郎君がベソをかいていたら、どんなにやりきれないだろうと、久助君は痛切に感じたのでした。不思議なことに、取っ組み合いをしていたあいだ、久助君は一度も相手の顔を見ませんでした。
今こうして相手を押さえつけているときも、自分の顔を相手の胸の横にすりつけて下を向いているので、やっぱり相手の顔は見えていないのです。
兵太郎君はピクリともせず、じっとしています。
かなり速い呼吸の音が、久助君の顔に伝わってきます。
兵太郎君は、いったい何を考えているんだろう。
久助君は少しだけ手をゆるめてみました。
けれど相手は、その隙をついて反撃してきません。
久助君は手を離してしまいました。
それでも相手は、起き上がろうとしません。
そこで久助君は、ついに立ち上がりました。
すると、兵太郎君もむっくりと起き上がりました。
兵太郎君は久助君のすぐ前に立つと、何も言わずに、しばらくの間ずっと地平線のほうを眺めていました。
なんとも言えない、さびしそうな目をして。
久助君はびっくりしました。
目の前に立っているのは兵太郎君ではなく、見たこともないような、さびしい顔をした少年だったからです。
なんてことだ、兵太郎君だと思い込んで、こんな知らない少年と、自分は半日も夢中になって暴れていたなんて。
久助君は、世界がひっくり返ったような気分になりました。
そして、ポカンとしてしまいました。
いったい、これは誰なんだろう。
自分が半日も夢中になっていた、この見知らぬ少年は……。
なんだ、やっぱり兵太郎君じゃないか。
やっぱり相手は、いつもの仲間の兵太郎君でした。
そうわかって、久助君はホッとしました。
あたりはもう、薄暗くなっていました。
着物についた草のゴミをパッパと払い、帯を締め直すと、なんだか恥ずかしいような気持ちで、久助君は兵太郎君と別れました。
「じゃあね」の一言も言わずに。
けれど、それからの久助君は、こう思うようになりました。
――ぼくがよく知っている人間でも、ときには、まるで知らない人間になってしまうことがあるんだな。
それに、ぼくがよく知っているのが本当のその人なのか、ぼくの知らない顔が本当のその人なのか、誰にもわからないことなんだな、と。
そしてこれは、久助君にとって、ひとつの新しい悲しみとなりました。

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