初級翻訳・蝶が飛ぶ 葉っぱが飛ぶ 第1話

河井 寛次郎

戦争がまさに終わろうとしている頃でした。
東京も大阪も神戸も、大きな街という街はほとんどが攻撃されて破壊しつくされ、もうすぐこの京都も、いつ明日どうなるかわからないという運命を待つだけの時でした。
私は毎日のように夕方になると、この街に最後の別れをするために、清水のあたりから阿弥陀ヶ峰にかけての東山の高台へ登っていました。
その日もしょっちゅう空襲警報が鳴り響いていた日でした。
私は新日吉神社の近くの木立の下、いつも腰掛けている切り株に腰を下ろして、だんだん暮れていく街を眺めていました。
明日にはもう二度と見ることができないかもしれないこの街を、なんとも言えない気持ちで見つめていたのです。
その時でした。
私は突然、ある一つの思いにガツンと心を打たれたのです。
なんだ、なんだ、いったいどういうことなんだ。
これでいいんじゃないか、これでいいんだ、これでいいんだ。焼かれようが殺されようが、それでいいんだ――それですべてがぴったり調和しているんだ。
そんな、思いがけない考えが心の中からむくむくと湧き上がってきたのです。
そうです、私ははっきりと「調和」という言葉を自分の心の中で聞いたのでありました。
なんだ、なんだ、これでちゃーんと調和しているんだ、そうなのだ――そんな思いに心を打たれたのです。
とはいえ、私にはそれがいったいどういうことなのか、はっきりとはわかりませんでした。
わかりはしなかったのですが、それでも、これからこの街がどうなってしまうのかわからないという不安の中で、なぜかふっと心がやすらぐような思いが湧いてきたのです。
私は不安な気持ちのままで、だんだんと楽しくならずにはいられませんでした。
頭の上では蝉がジンジンと鳴いています。その鳴き声さえも、なんだか楽しく聞こえてくるのです。
さようなら、さようなら、京都の街。
それからは、空襲警報が鳴っても私は不安な気持ちのままで、心は平和――そんなふうにして過ごすことができるようになったのです。
しかし、どうして「殺す」「殺される」といったひどいことが、そのままでいいと言えるのでしょうか。
こんな理不尽なことが、どうしてこのままでいいはずがあるでしょうか――それにもかかわらず、「このままでいいのだ」という思いが私の心をいっぱいにするのです。
この正反対の二つの気持ちの真ん中にいながら、私は、この二つがまるでより合わされて一本の縄になっていくような、そんな自分自身の姿を見たのでありました。
それから一週間ほどたった日のことです。
私は、いつものようによく出かける山科へ行こうと思って家を出ました。
山科の農家や田んぼの景色は、いつも私の心を楽しくさせてくれるのです。
道は蛇ヶ谷を通って東山の峰を分け、滑石峠を越えて山科へと下っていきます。
峠からの見晴らしは最高に素晴らしいのです。
その峠を少し下ったところに、山桐の大木が一本どっしりと立っています。
私はいつもそのあたりで一休みするのですが、ふと見ると、この大きな木の葉っぱがすべて虫に食べられてしまって、すっかり丸坊主になっているではありませんか。
まわりの青々とした松や杉の中に、この木だけが葉っぱのすじだけを残したカサカサの葉をつけて立っているのです。
葉っぱは虫に食べられ、虫は葉っぱを食べる――見るからにそれは、かわいそうで惨めな姿そのものでした。
それにしてもこの日はいったいどうした日だったのでしょうか。私は見てすぐに気づいたのですが、その「かわいそうだな」という思いの中に、今まで一度も思ったことのないような新しい思いが頭をもたげてきたのです。
葉っぱが虫に食べられ、虫が葉っぱを食べる――これまでは「そうとしか見えない」と思っていたことが、今日という今日はどういうわけか違って見えたのです。
葉っぱが虫に食べられ、虫が葉っぱを食べているにもかかわらず、虫は葉っぱに育てられ、葉っぱは虫を育てている――その時、私にははっきりとそう見えたのです。
「食べ、食べられる」というかわいそうな現実が、そのままの姿で「育て、育てられる」という現実とぴったりくっついているとは、いったいどういうことなのでしょうか。
このところずっと頭の中でモヤモヤしていた、「これでいいのだ」「これでちゃーんと調和しているんだ」という、でも突き詰めるとなぜそうなるのかわからなかった疑問に、ここでついに答えが出たのです。
虫と葉っぱが、ハッキリとそう答えてくれたのでありました。
不安のままでの平和――そうなのか、そうだったのか。
蝶が飛んでいる、葉っぱが飛んでいる。日が暮れるまで、私は山科の村々を歩き回っていました。
この世界は、このままで大きな調和に包まれているんだ。

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