一
戦争が終わってもう四年という月日が流れていたので、復員(お帰り)をお祝いする気分もなんだか少し抜けてしまっていたけれど、山川花世(やまかわはなよ)という人がまさか無事に帰ってくるとは思っていなかったものだから、びっくりして色々な顔ぶれが集まっていました。
この会のホストである元フランス領事の伊沢(いざわ)さんと、昔山川の教え子だった伊沢の奥さんの安芸子(あきこ)さん、理学士の須田(すだ)さん、貿易がまた始まったので近くリヨンへ行くことになった森川組の笠原忠兵衛(かさはらちゅうべえ)さん、シンガポールの戦犯裁判(せんぱんさいばん)で弁護団のマレー語通訳をしていた岩城(いわき)画伯などが集まっていましたが、約束の時間をすぎても、肝心の山川はなかなかやってきません。
伊沢さんは窓際のソファで、笠原さんと領事だったころの昔話をしていましたが、そのうち「いいものを聞かせてあげよう」と言って、空色のラベルが貼られたものすごく古いレコードを取りだしてきました。
「テット・スキッパの『蝶』だよ。
あのころパリにいた連中なら、誰もが忘れられない思い出を持っているはずだ」
かすかな歌声が、オーケストラの演奏の中から、まるで音の糸をそっと引き出すように漏れてきました。
ものすごく細かいテクニックと熱い情熱が美しく波打つスキッパのハバネラは、ただ声を張るだけの薄っぺらな歌い方では、どんなに派手な声を仕上げてもまったくダメなんだということを証明するように、聞く人の心を深い夢心地へと引き込んでいきました。
歌が終わって、食前のカクテル(アペリチフ)が出ると、笠原がこんなふうに言いました。
「あのころ、パリに遊びに来ていた豊沢大掾(とよさわだいじょう)がこれを聞いて、河東(かわひがし)や荻江(おぎえ)の節回しのようないい味が出ているって、うまいことを言ったけれど、歌うという芸術もここまで極まると、もう東洋も西洋もないものだな。
俺も何十回聞いたか知れないけれど、聞いているあいだは、これが西洋の歌だということさえ忘れちまうんだよ」
すると、そばにいた岩城が、何かを思い出したようにこんな話を始めました。
「いまのハバネラで思い出したんですが、バタヴィアの戦犯裁判にかけられた人たちの中に、フィリピンの若い娘たちのあいだですごい人気があって、『蝶』というあだ名で呼ばれていた日本人がいたんです」
須田が興味のなさそうな声でたずねました。
「そいつは、いったい何をしたんだい?」
「マニラのポゥロ大学での八百人の非戦闘員(一般の人)虐殺、ラグナのカランパノでの幼児虐殺、パタネスのバスコの残虐事件……そのどれかに関わっているはずで、そのせいで何度も裁判所にひっぱり出されるんですが、いざという土壇場になると、五人も十人も若い娘の証人が現れて、無実だという証拠を出しては無罪にしてしまうんです」
「ほう、その男の名前は丹次郎(たんじろう)だな。
なかなかやるじゃないか」
笠原が話を茶化しにかかりました。
「それで、最後まで逃げ切れたのか?」
「そういう男でしたが、やはり最後には幕を引かざるをえなかった。
フィリピンのほうはうまく逃げ切ったものの、スマトラのパレンバンでの虐殺事件を、何やら言うスペイン人の血を引く娘に暴かれて、ついにバタヴィアの刑務所で絞首刑になったんです。
頭巾を取ってみたら、『蝶』の正体は案外とつまらない男だったけれど、助けたのも若い娘なら、殺したのも若い娘……絵にたとえるなら、デッサンがしっかりした戦争画の細かい部分を見ているようで、なんとも複雑な気持ちにさせられましたね」
みんなでのんびり、そんなおしゃべりに夢中になっていたわけではありません。
本当のところは、みんな少しずつイライラして腹を立てていたのです。
すでに八時をまわっているのに、山川はまだやって来ません。
中身のない時間を、あてもない会話でなんとか埋めようとする努力にもうんざりし始めたころ、須田が大きなあくびをしながら伊沢の奥さんに言いました。
「なんだか、きな臭い話になってきたな……安芸子さんが資生堂で見かけたっていうのは、本当にあれが山川だったのかな?」
と、よけいなことを口走りました。
「きな臭いって、どういうことよ?」
「戦争に行って、あいつが生きて帰ってくるなんて保証はどこにもないからね。
どう考えても理屈に合わないよ。
それは安芸子さんの書いた告白小説なんじゃないのか?
山川に会いたい、会いたいって、あまりに強く願いすぎて幻を見たんじゃないのかな」
「まるで死者を呼び寄せる反魂香(はんごんこう)でも使ったって言うの? まさか」
伊沢の奥さんは、それをサラリとかわしました。
「驚いたのは、あたしだけじゃないのよ。
山川さんが、薄いネズミ色のダブルのスーツでも着ていたのか、前ぶれもなく、すうっとお庭に入ってきたものだから、上の階にいた常子(つねこ)お姉さまなんて、ああと縁側の柱にしがみついたまま、一歩も動けなくなっちゃったんだからね」
五日ほど前、伊沢の奥さんが買い物の帰りに資生堂へ寄ると、いつものようにギャラリーの金属製の手すりのそばにあるテーブルで、山川花世が昔と少しも変わらない様子でコーヒーを飲んでいたのです。
それでそばへ行って、
「山川先生、いつぶりでしょう」
と挨拶をしたのですが、赤いタスキをかけた山川を兵隊の門へ見送ってから、今日というその日までのあいだには、戦争中も戦後も含めて、六年という冷酷で長い時間の流れが挟まっているのだから、「いつぶりでしょう」なんて挨拶は、どう考えてもおかしな話でした。
「六年と言ったら、老けたり痩せたり、何かしら変化があるはずなのに、まるっきりそんなことはなくて、出征した日のままの顔で、目を伏せて恥ずかしそうにしているじゃありませんか……だから、思わずバカなことを言っちゃったんだけど、後から気づいて、すごく嫌な気持ちがしたの。
幽霊だなんてこれっぽっちも思わなかったけれど、ああ、夢を見ているんだなって……」
山川が入隊していったのは、小雨の降る、肌寒くうす暗い朝のことでした。目を釣り上げた上の姉の常子は、毛布地で作った大きなくるみボタンのコートを重ね着し、鼻の下までマフラーを引き上げた山川にコウモリ傘をさしかけながら、「あれはどうしなくちゃいけないとか、これは忘れてはならないとか、ネオ・レバー(薬)を飲むのを忘れないでとか」、まるで子供に言い聞かせるようにクドクドと注意していました。
日本の文化史が必ずや一ページを割いて取り上げるほど、権威あるクリスチャンの家族が、ただ一人の大事な跡取り息子を育てたいあまり、あろうことか土地の迷信にすがって「花世(はなよ)」という女の子のような名前をつけた、その狂いっぷりからも察しがつきますが、山川花世は母親と二人の姉たちの自己犠牲と手厚いお世話によって、どうにかこうにか人並みに成長することができました。
そのため、上の姉の常子はついに結婚のタイミングを逃してしまいましたが、山川は生まれてから三十歳に至るまで、その日常はまるでサナトリウム(療養所)のような生活で、生水は飲まず、外で食べ物を口にすることもありません。
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