初級翻訳・地底獣国 第12話

久生 十蘭

それは古生代三畳紀のレーチック植物の一種で、当時、羊歯(シダ)や木賊(トクサ)などとともに地球の表面をおおっていた「ニルソニア」という種類のソテツです。
博士の手のひらは、今、まさに一千万年前の植物の肌に触れているのです!
「……息が詰まる!」
 すすり泣くような声でつぶやくと、博士は両手で白髪の頭を抱え、ソテツの根元にしゃがみ込んでしまいました。
自然科学者として、古生物学や地質学を研究する数多くの学者の中でも、かつて誰一人として出会うことのできなかった至福の境遇に、博士は感動のあまり、意識を失いかけていたようです。

博士は、先ほど通り抜けてきた洞窟の中のジュラ紀の地層が、上下逆さまになっており、その上を厚い片麻岩(へんまがん)がおおっているのを確認していました。
それだけでも、このあたりの地殻変動がどれほど激しいものだったかが容易に想像できます。
いま自分たちがいる、シベリアのツルノニア圏と呼ばれる陸地の一部は、大昔の地殻変動の際、爬虫類や空を飛ぶ爬虫類、古代の木々を乗せたまま地底深くへと沈み込み、その上を分厚い岩の層でフタをされてしまったのでしょう。
こうした理由で、これらの爬虫類は絶滅を免れ、一千万年前のままの姿で生き続けていたのです。

もちろん、五人の漁師たちは博士ほどの深い感動は抱いていませんでした。
それでも、あまりに不思議な光景に心を奪われ、乾パンを手に持ったまま、食べることも忘れてぼう然と見つめていました。
昔、銛(もり)打ちだった片目の北原省三が、感極まったような声で叫びました。
「でっけえなァ! あれは象か、それとも鯨か。
……銛を打ってみてえもんだな。
あいつに銛を打ち込んだら、どんな気分だろう!」
 手元に使い慣れた銛がないのを残念がるように、悔しそうに足踏みをしています。
その様子があまりに面白かったので、みんなはドッといっせいに笑い出しました。

博士はその声で夢から覚めたように顔を上げると、五人のほうへ戻ってきて、黙々と食事の続きに取り掛かりました。
機械的に口へ食べ物を運んではいますが、目は焼き付くように雷竜のほうへ注がれています。
亀井が、大きな傷跡のある眉間を突き出すようにして、博士にたずねました。
「先生、あれは一体なんていう生き物なんですか」
 博士の返事は、とてもそっけないものでした。
自分の感動を邪魔されたくないのか、少し眉をひそめると、
「あれは、大昔に生きていた動物だ」
 と、ぶっきらぼうに答えるだけでした。
それっきり、何も言いませんでした。
「へえ……」「それじゃあ、あいつは悪さをしないのかい? あんな大きなやつに襲われたら、ひとたまりもないからねえ」

「あれは草を食べるやつだから、人間には害を与えない。だが、もしあれが恐竜でも肉食のやつだったら大変だ。俺たちは一人だって助かりはしないだろう」

博士は、もう何も話しかけるなと言わんばかりに手を振った。
雷竜は長い首を振りながら浅瀬を歩き回っていたが、やがて足元からズブズブと沼の中へ入り、水面に首だけを出したまま、向こう岸へと渡っていった。

食事が終わり、いよいよ出発という時になって、清水岩吉がこのソテツの木で刳舟(くりぶね)を作って、船で進んだらどうだろうという意見を出した。
時間の節約にもなるし、陸にいる正体不明の獣たちに襲われる危険も避けられる。みんなで力を合わせれば、三日もあれば立派な刳舟ができるというのだ。神風丸の二等運転手で、造船の心得もある清水の意見は、いかにも説得力があった。

すると須田が口を挟んだ。
「んだども、こんなところで三日もまごまごしてたら、追っ手に追いつかれちまう」

清水が意見を言っている間、皆が心の中で思っていたことだった。清水は頷いてからこう言った。
「そのことは、俺だって考えていないわけじゃない。だが、今日でもう三十五日になる。追いつくものなら、もっと早く追いついているはずだ。俺は甘く見ているわけじゃないが、今まで追いついてこなかったやつらが、この三日の間に急にやってくるとは思えない。それに、俺たちが刳舟を作ってこの木を持ち去れば、あいつらは嫌でも陸を大回りしてこなくちゃならない。こちらはどんどん船で進むのに、あいつらはトコトコ陸を歩いてくるとなれば、この先、いつ追いつかれるかとビクビクする必要もなくなるわけだ。どうだ、乗るか反るか、一つ三日を賭けてみないか」

うまく行けば、この先追手に追いすがられる心配がなくなる。犬のように撃ち殺されるという惨めな運命から解放されるのだ。その言葉は、他の三人の心を動かした。
みんな一斉に篁(たかむら)の顔を眺め、その決断を待った。どんな場合でも、漁場監督である篁の意見に従って行動することが、カムチャッカの漁場以来、一行の不文律になっていたからだ。博士も、篁がどう答えるのかと、その顔を見守っていた。博士も清水の意見に賛成だった。船で行けば、また別の爬虫獣が見られるかもしれないと思ったからである。

篁は太い眉のあたりを緊張させ、考え事をする時にいつもする腕組みをしたまま、一分ほど考え込んでいたが、やがてたった一言、
「よし、やるべ!」
と言った。

一同は、一度背負いかけた背嚢(リュック)をまた下ろすと、腰に差していた手斧を抜き取り、ソテツの根元に斧を入れ始めた。用心のために、土工の須田が洞窟の出口で張り番をする役になった。洞窟の中でチラッとでも安全灯の光が見えたら、駆け寄って急を知らせるという約束だ。
ソテツは石のように硬かったが、それでも日暮れ前にはとうとう切り倒すことができた。一同は清水の指揮に従って、くり抜きやすくするためにソテツの幹の上に小枝を山のように積み上げ、それに火をつけた。もう日暮れも近く、沼の上は灰白色からぼんやりとした薄墨色に変わっていった。

その時、突然、十間(約十八メートル)ほど後ろの洞門の方で、鋭い銃声が二発響いた。
「ぎゃーッ!」という須田の絶叫が聞こえ、少し間をおいてから、白い煙の塊がスーッと洞門から流れ出してきた。
一同は一斉に棒立ちになった。死の追跡者が、とうとう追いついてきたのだ。

博士は地面の上にそっと斧を置くと、青ざめた唇を動かして、
「やって来た!」
とつぶやいた。
漁師たちの顔には、それほど恐怖の色はなく、その代わりに、相手を甘く見すぎていたという苦々しい後悔の色が浮かんでいた。篁だけは、もう諦めたような顔でソテツの幹に腰をかけ、立ち上がろうともしなかった。

洞門の闇の中から、冷徹な面持ちのモローゾフ教授が現れた。手にはペターセン六連発の大きな自動拳銃を握っている。その後ろから、革の半コートに革のゲートルをつけたナターシャ・イワーノヴナが出てきた。
モローゾフ教授とナターシャの二人きり。その後ろに続く者は誰もいなかった。
これがまず、五人を驚かせた。しかも、どちらも五人が想像していたような武装はしていなかった。自動小銃も持っていなければ、弾帯もつけていない。教授の手に拳銃が一丁あるだけだった。

コメント

タイトルとURLをコピーしました