いつものように非情で冷酷な眼つきをしているが、見るからに憐れを催すほどひどくやつれ果て、シャツもズボンもズタズタに裂け、いたるところにべっとりと血の跡がついていた。ナターシャのほうは、もっとひどい有様だった。外套の襟元は無残に引き裂かれ、むき出しになった白い肩には、まるで獣の爪で引き裂かれたようなゾッとする傷跡があり、そこから生々しい血が筋になって流れていました。
教授は一行から二十フィート(約六メートル)ほど離れた場所に立ち止まると、感情の読めない沈鬱な眼差しで、ゆっくりと一人ひとりの顔を見渡しました。
二人の惨めな姿を見た瞬間、一行の心には、打合せもしていないのに同じ作戦が浮かび上がっていました。
「たかが拳銃が一丁だ。もう少し近づいてきたら、誰か一人が噛みつかれている隙に、みんなで飛びかかって仕留めてやろう」
ところが、冷静な教授の頭脳には、防御と攻撃の両方を完璧にこなすための緻密な距離計算ができていたのです。
ちょうど二十フィートの距離に立ち止まると、そこから一歩も近づこうとはしませんでした。
教授はゆっくりと銃口を上げ、真っ直ぐに篁(たかむら)の胸を狙い始めました。
いよいよ最後の瞬間が来たのだと悟りました。これまでの三十五日間の苦労も、すべて水の泡です。ただ、流刑地の三角州から百五十里ほど日本に近い場所で死ねるということだけが、せめてもの慰めでした。
引き金にかかった教授の指が、ピクッと震えました。
篁は大きな目をギョロつかせながらそれを見つめ、三人の仲間にだけ聞こえるように日本語で囁きました。
「あいつのピストルには弾が四発しか入っていない。一発で一人ずつ殺したとしても、誰か一人は残るはずだ。残ったやつは、あの男と女を殺して、どんなことがあっても日本へ帰れよ」
三人は小さく頷きました。しかし、誰が生き残るというのでしょう? 博士でしょうか……。教授の博士に対する憎しみは深く、とても生かしてはおかないはずです。となると、四人の漁夫のうちの誰かが生き残るということになります。
弾丸は発射されず、代わりに教授が鋭い声で命じました。
「縦隊を作れ! ……後ろの者は、前の者の肩に両手をかけろ」
一同は命令に従い、一列に並びました。先頭は博士です。
続いて教授が第三の命令を下しました。
「そのまま、沼の方へ後退しろ!」
一同は一歩ずつ、後退りしながら沼へと向かいました。なんと緻密な頭脳でしょう。教授は、自分が持つ弾丸の数では五人を一度に仕留めきれないことを計算に入れ、泥沼の中へ沈めて殺そうとしているのです。
かつて留吉という若い漁場見習いを引きずり込み、自らコリマの泥沼へ沈んでいった不幸な仲間の最期が思い出されました。あいつのほうが、俺たちよりよっぽど賢かった。
亀井が「ふふん」と鼻で笑いました。その皮肉な笑いはすぐにみんなに伝わりました。後退りしながら、他の三人もクスクスと笑い出しました。
すると教授が命じました。
「止まれ! ……ヤロスラフスキー博士、あなただけ一人でこちらへ来なさい」
博士は列を離れ、毅然とした態度で教授の方へ歩いて行きました。もう顔に青ざめた色はありません。
これまで泥の上に座って成り行きをジロジロと観察していたナターシャが、突然立ち上がって博士に近づきました。狂信者のような不気味な目で博士を睨みつけると、「裏切り者!」と叫び、力まかせに平手で頬を打ちました。
博士はよろめきました。
「破廉恥漢! 利己主義者! 犬!」
ナターシャの怒りが収まるのを待って、教授が静かに言いました。
「博士、私は考えを変えました。恵須取(えすとる)山の旧火口から日本を一目見る時まで、あなたとあいつらの処刑を延期してやろう。あなたは、私とナターシャが快適な旅行を続けられるよう、あいつらと協力しなさい。……驚くべき『地底の獣国』を発見した名誉が、あなたのものにならないのは残念ですが、それも自業自得です。私をここへ来る気にさせたのは、他でもないあなたなんですからね、博士……」
八、「迦摩(かま)の閨房(けいぼう)」
刳舟(くりぶね)は、まるで死んだように小波ひとつ立てず、とろりとした沼の上を滑っていきました。
沼の果ては霞んでぼんやりとしており、空の乳白色が水面に映り込んで同じ色で広がっているため、まるで空の中を進んでいるような不思議な感覚でした。
刳舟は三間(約五・四メートル)以上もあり、七人がゆったり座れるほどの広さがありました。舳先(へさき)にはナターシャとモローゾフ教授が座り、艫(とも)には博士が座りました。四人の漁夫は一列になって舟の底にあぐらをかき、教授の拳銃の銃口が指し示す通りに、舟の速度と方向を変えて進んでいきました。
櫂(かい)の音に驚いて、長頸竜がダチョウのような首をひょっこりと水面に突き出したり、沼の浅瀬では肺魚が泳いでいたりしました。そのたびに教授はそちらへ舳先を向けさせ、丹念に観察したりスケッチをしたりするのでした。時には、沼の上に半日も舟を停めては、長頸竜や翼手竜の姿を二十通りにもスケッチして過ごす。
ナターシャはその間、拳銃を膝の上に乗せて、囚人たちの監視役を務めていました。
そんなわけで、三日目になっても舟はまだ沼の中ほどまでしか進んでいません。
漕ぎ手の漁夫たちはすっかり退屈してしまい、代わる代わる居眠りをしています。
ただ一人、銛(もり)使いの北原だけは、暇さえあれば沼の岸で拾った硬い泥炭の塊をコツコツと削り、銛を作っていました。
どうやら、あの巨大な雷竜に一矢報いるつもりらしいのです。
七日目の朝、ようやく向こう岸が見えるところまで近づきました。
対岸には変わった形に折り重なった高い丘が続いており、切り立った崖の断面には洞窟の黒い入り口が見えます。沼の水は、激しい水流となってその中へ吸い込まれていました。
沼の水面と洞窟の底との間には大きな段差があるらしく、轟々と流れ落ちる水音が洞窟に反響して、遠くまで響き渡っています。
運転手の清水が真っ先にその危険に気づきました。
他の漕ぎ手を励まして、水流から抜け出そうと必死に舟を漕ぎ始めましたが、その時はもう手遅れでした。
舟はまるで磁石に引き寄せられる鉄片のように、船尾に白い泡を噴き上げながら、ものすごい勢いで洞門の方へ走り出しました。
見る見るうちに、向こうの断崖が目の前に迫ってきます。
刳舟(くりぶね)は渦に巻き込まれて入り口で一度半回転すると、ゴーッというすさまじい音を立てて真っ暗な洞窟の中へ引き込まれ、三十度くらいの急角度で真っ逆さまに落下し始めました。
まるで、昔遊園地にあったウォーター・シュートのような状態です。
舟から誰も放り出されなかったのが不思議なくらいでした。
一同は舳先(へさき)の方へ将棋倒しになって重なり合い、揉み合ったおかげで、かえって無事に収まりました。
一番下にいた博士は、みんなの下敷きになってひどい目に遭いましたが。
洞窟の入り口でクルリと半回転したため、舟は船尾のほうから先に落ちていきます。
そのため、こんな緊迫した状況の中でも、教授は五人を監視するのに一番都合のいい位置をキープすることになりました。
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