初級翻訳・新西遊記 第5話

久生 十蘭

アフリカ大陸の奥深く、サハラ砂漠の真ん中には、黒人たちのイスラム王国の文化の中心地である「トンブクトゥ」という学問の都があります。そこにあるサンコレ大学には、ギリシャやラテン語の詩の写本や、アラビア語の古い本が集まっていると言われていました。かつて、そこに通う学生が「トンブクトゥの黄金のガチョウの羽根ペン」を使ってトルコの王様に手紙を書いた……なんていう作り話まであったほどです。しかし、ここラサはただの伝説ではありません。シルクロードを通ってインドを横断し、ブータンやパミール高原を越えて伝わってきたシリアやペルシャの古い文化が、そのままの形で大切に守られている、世界でも類を見ない学問の都なのです。

ラサの近くには「デプン」「セラ」「ガンダン」という三つの大きな大学があります。それぞれの大学は三つの学部に分かれ、さらに一つの学部には十八もの学科があります。そこでは二万五千人もの学生たちが、今はもう使われなくなった中央アジアの古い言葉(ブラーフミー文字やゾクト語、ウイグル語など)で書かれた、仏教の教えや研究書を一生懸命に学んでいます。

大仏殿にある図書室には、七世紀の初めに出版されたチベット語の「一切経(いっさいきょう)」をはじめ、はるか昔の中国の王朝時代に石に刻まれた文字を写し取った本や、火を崇めるゾロアスター教の聖典、マニ教の教本、景教(キリスト教の一派)の教本など、千年以上も前に世界から消えてしまったはずの宗教の貴重な本が、当時のままの姿で残されているのです。

オーストラリアの探検や中央アジアの調査が終わると、世界地図の中でまだ誰も正体を知らない「白い部分」は、北極や南極を除けば、アフリカのイスラム王国とチベットだけになりました。
しかし、そのイスラム王国のトンブクトゥも、一八二七年にフランス人のルネ・カイエがたどり着き、生きて帰ってきた最初のヨーロッパ人として国へ戻ったことで、もはや謎の国ではなくなりました。こうしてチベットだけが、世界でたった一つの「知られざる土地」として残されたのです。

キリスト教の宣教師たちが書いた報告書によって、チベットの様子が少しずつ分かってはきましたが、それは人々の暮らしをほんの少しのぞき見た程度のものでした。地理的な正しい知識を得るためには、どうしてもチベットの中に足を踏み入れ、自分たちの手でその秘密のベールをはぎ取るしかありません。
そこで、一八一一年にイギリスのマイニングが挑んだのをきっかけに、イギリス、フランス、ロシア、ハンガリー、アメリカ、スウェーデンといった国々の探検家や地理学者たちが、チベットの固い守りを突破しようと挑戦し始めたのです。

インドからラサへ入るには、ダージリンという場所からヤートゥンを通るメイン道路のほかに、桃の谷へと回り込む脇道や、カンチェンジュンガという高い山の西側にある、高さ約七千メートルの険しい峠(ユングリングリラ)を越えて西から入る秘密の道があります。
もしインドからのルートを避けようとするなら、中国の西康や青海、トルキスタン方面から行ったり、あるいは大きな川の上流にある西寧という場所を通る方法もあります。しかし、チベット内部へ続く道は、どんなに細い秘密の道を通って入ってきたとしても、まるで上手な将棋指しがたった一つの駒ですべての敵の動きを止めてしまうかのように、最後には必ずメインの道路を通らなければならない、抜け目のない仕組みになっているのです。

結局、チベットのどこかの関所で捕まってしまい、「国の法律を破り、仏様の聖なる土地を外国人の靴で汚した」という重い罪によって、「五体投地(ごたいとうち)」という恐ろしい刑罰を受けることになります。
それは、チベットの馬に乗った役人と四人の兵隊に見張られながら、地面にひれ伏して呪文を唱え、何十キロ、何百キロあろうとも、自分がこっそり入ってきた国境まで、ずっと地面をはいつくばって戻らなければならないというものです。

何週間もかけてようやく国境までたどり着くと、今度は裸馬に乗せられて、はるか遠くの砂漠の入り口まで連れて行かれます。そこで足の裏に「漆(うるし)」を塗られて、ようやく解放されるのです。
食べ物も水も一切もらえませんが、役人たちは「一日歩けば水がある場所に着くぞ」ということと、行くべき方向だけを詳しく教えます。
「あと一日の辛抱で水が飲める!」と、捕まっていた人たちは夢中で歩き出しますが、すぐに足の裏に塗られた薬のせいでひどい水ぶくれができ、痛みのあまり立って歩けなくなって、結局はいつくばって進むしかなくなります。

空気がカラカラに乾いたこの土地では、水なしで生きられるのはたったの十九時間が限界です。それでもあきらめず、とてつもない我慢強さで水のある場所までたどり着けた人間だけが、ようやく生きて故郷へ帰ることができたのです。

運よく国境近くの関所をすり抜けることができたとしても、その先にはさらに厳しい「内側の関所」が待ち構えています。
どの方向から来たとしても、ラサに入るには五つの関所で調べを受けなければなりません。そこでは「反坐法(はんざほう)」というとても複雑な手続きがあり、どんなに急いでも二十日はかかってしまいます。
まず、最初の関所で「仮の通行証」をもらうのですが、そのためにはその土地の区長と、五人の村人を保証人に立てなければなりません。
もし間違えて外国人を一人でも通してしまったら、保証人になった区長も五人の村人も、みんな同じ重い罪に問われるという恐ろしい仕組みなのです。

仮の通行証を持って二番目の関所へ行くと、今度はチベット語の筆記試験と口頭試験が行われます。それをクリアしてようやく、清の国の役人が管理する三番目の関所へと送られます。
中国人のふりをしてこっそり入ってきた者たちは、みんなここで正体を見破られ、命を落とすことになるのです。4つ目の関所でもう一度「町に入れてください」とお願いをして、仮のパスポートを返して本物のパスポートを受け取ります。さらに、検査官がいる5つ目の関所で税金を払い、パスポートに入場許可のハンコを押してもらうよう頼みます。
そこからなんと3つ目の関所まで戻って、3番目、4番目、5番目の関所で順番に、それぞれの責任者のハンコをもらわなければなりません。そうして、ようやく町の中心へと入ることができるのです。

1811年のマイニングから1896年のスウェン・ヘディンまで、多くの探検家が挑戦しましたが、ラサに忍び込むことに成功したのは、フランスのお坊さん二人組(ユックとガベ)と、チベットの言葉に詳しいインド人の学者(サラット・チャンドラ)だけでした。あとの人たちはみんな、チベットの入り口近くで捕まったり、悲しい終わり方をしたりしたのです。

ロシアのブルジェヴァルスキー将軍は、15年もの間、北や東から4回も潜入しようとしましたが、とうとう目的を果たすことはできませんでした。フランスのボンヴァロさんは、ラサまであと160キロという湖のそばで、イギリスのリットルデール夫妻は「もうすぐそこだ!」というあと80キロのところまで迫りながら、どちらもチベットのお坊さんの兵隊たちに見つかってしまいました。

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