初級翻訳・新西遊記 第8話

久生 十蘭

「目的を果たすまでは、仏様の教えを完璧に守り、汚い食べ物は口にせず、托鉢でもらった清らかなもの以外は食べないこと」「日本人としての家族や友人との縁をすべて断ち切り、この一生でもう二度と両親や兄弟、友達には会わないこと」……そして一番恐ろしいのは、「もしも願いが叶ったときには、聖地を外国人の靴で汚してしまった罪をわびるため、自分の両足をひざから下で切り落とし、犬やオオカミに食べさせて捧げものにすること」といった内容でした。

次の日の夜明け前、智海さんは冷たい谷川の水で体を清めると、目の前に氷の山「カンチェンジュンガ」がそびえ立つ高台に座りました。

108回もお祈りをしてから誓願文を読み上げ、山に向かって「どんなに苦しいことがあっても、それが人々を救う道になるのだ」という意味の歌を声高らかに歌いました。そして、正式に先生としての資格(学位)を取るために、あらためてお寺の学校へと入ったのです。

ラマ教の勉強は、「名前」「教えの内容」「詳しい解説」という順番で進んでいきます。

智海さんは明治31年の5月に中級クラスに進み、その年はずっと深い瞑想(めいそう)や教えの真理について勉強しました。そして、明治32年の終わりには、ついに「小導師(しょうどうし)」という位を手に入れたのです。

そうして過ごしているうちに、ある情報を耳にしました。毎年、昔のカレンダーで9月の初めから次の年の2月の真ん中までの半年間、チベットの巡礼者たちがネパールのカトマンズにある大きな塔(大塔)にお参りに来るというのです。

ネパールはブータンの西側にあり、チベットとインドの間にある国です。国の真ん中をヒマラヤ山脈が氷の壁のように東西に走っていて、エベレストやアンナプルナ、ダウラギリといった、世界でも一、二を争うほど高い山が5つも集まっている、とても険しくて切り立った場所でした。

昔、チベットとネパールの間は、ヒマラヤの北にある「ノラの大峠(おおとうげ)」という道を通って、人々が行き来していました。

文久3年(1863年)にイギリスの探検隊がこっそり入り込んでからは、その道も閉ざされてしまったと言われていました。でも、それなのに大勢の巡礼者がやってくるということは、どこかに抜け道があるに違いない、と智海さんは考えました。

「あそこへ行けば、何かチャンスがあるかもしれない」そう思った智海さんは、次の明治33年の1月、早めにお寺を出ると、カルカッタから汽車に乗ってカトマンズへと向かいました。

10日間のお祭りに参加して、仲良くなった巡礼者たちに尋ねてみました。すると、「メンダンという峠に巡礼だけが通れる道があるけれど、ラサの政府が出した特別なパスポートを持っていないと通れないよ」と言われてしまいました。これでは、その道を使うわけにはいきません。

2月の半ばまでお寺で空しく過ごしていましたが、ある時、こんな話を聞きました。「100年ほど昔、ネパールのグルカ族という人たちが、高さ3万尺(約9000メートル)もあるダウラギリの山を越えてチベットに攻め込み、ラサのすぐ近くまで迫ったことがあるんだ」……この伝説を聞いて、智海さんの心は激しく揺さぶられました。

ちょうどそんな時、同じ部屋に泊まっていたギャルツァンという名前のラマ教のお坊さんが、お別れの挨拶にやってきました。

彼はダウラギリの山のふもとにある「カンプゥタン」という村へ帰るところでした。「私の村のお寺には、とても珍しいお経の本の写しがあるから、読みに来ないかい?」と誘われた智海さんは、喜んでついていくことにしたのでした。カンプゥタンは、標高が5000メートル以上もある高い山の斜面に、まるでカキの殻がピタッとくっついているような、50軒くらいの小さな村でした。

村のすぐそばまで氷の河(氷河)が迫っていて、目の前には風と雪に削られたダウラギリの山脈が、今にも押し寄せてきそうなほど高くそびえ立っています。

住んでいるのは、チベットの北の高原からやってきて住みついた、本物のチベット人ばかり。どの家の屋根にも、お祈りの言葉が書かれた白い旗がヒラヒラとはためいていて、まさに話に聞いていた通りのチベットの風景そのものでした。

男の人たちは、白い羊の毛でできたシャツを着て、その上に着物に似たひざ丈の羊毛の服をゆったりと羽織り、革のベルトを締めています。

驚くのは袖(そで)の長さです。筒のような形をした袖が、服のすそよりもさらに下までダラーンと垂れ下がっているのです。

この袖は寒さを防ぐためのものですが、なんと食器をふく雑巾(ぞうきん)代わりにも使われます。家にいるときや、右手を使って作業をしたいときは、片方の肩を脱いで、長い袖を腹巻みたいにベルトの周りにぐるぐると巻きつけるのでした。

男の人はみんな頭をツルツルに剃っていて、外に出るときは、お寺の鐘をひっくり返したような形のフェルトの帽子をかぶります。

足にはヤクという動物の皮で作った柔らかいブーツをはいていますが、このブーツの上のほうが袋のように大きく広がっていて、タバコ入れや、お茶の筒、木のおわんなど、なんでもかんでもその中に入れちゃうのです。

チベットは「一妻多夫(いっさいたふ)」といって、一人の奥さんに何人もの旦那さんがいる国でした。兄弟が5人いても7人いても、奥さんは一人だけ。土地が痩せていて食べ物が少ないので、兄弟がそれぞれ別に結婚してしまうと、みんなを養うことができないからです。

まず長男がお嫁さんをもらい、弟が大きくなると、お母さんの仲立ちでそのお兄さんの奥さんと夫婦になります。その下の弟もまた同じ奥さんと……というふうに、兄弟みんなで一人の奥さんを共有するのです。

お父さんと息子で一人の奥さんをもらうこともあれば、2人、3人の姉妹で一人の婿(むこ)さんをもらうこともありました。

しかも、みんなで一つの狭い部屋で暮らしているので、隠しごともありません。ここでは「不倫」なんて言葉は意味を持ちません。

まるで何も教わっていない子供のように、ありのままの自然な姿で暮らしているので、「恥ずかしい」とか「行儀よくしなきゃ」という考え方そのものが、彼らの生活には存在しないのでした。

カンプゥタンには、お肉を食べるほどたくさんの羊はいません。だから、麦を炒(い)った「ツァムバ」や、バター茶、固まったミルクなどがいつもの食事でした。

火にかけた鉄の器で「団茶(だんちゃ)」というお茶を煮出し、その黒い汁をおわんに入れます。そこにヤギのにおいがするバターを厚く切って入れ、炒った麦を振りかけます。たまにお肉が手に入るまで、何日もこれで空腹をしのぐのです。

それだけならいいのですが、困ったのは不潔なことです。男の人も女の人も、服を着替えるのは一年にたった一度だけ。体の垢(あか)は一生そのまま。手なんて一度も洗いません。

トイレに行っても鼻をかんでも、そのまま放っておくので、体は垢と脂(あぶら)でススのような色になり、服はバターの汚れでテカテカに光っています。

ご飯が終わると、おわんは舌でペロペロとなめておしまいです。

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