初級翻訳・地底獣国 第6話

久生 十蘭

「……おら、こんな不具だすけ、とってもそんなとこさ、ついて行けねえべ。……おら、ひとり、こんなとこさ残されて、どうしてこれから生きていかれるべ。おら、いやだ、おらいやだ」
血を吐くような叫び声を上げると、彼は同じ鎖に繋がれている、二十四、五歳くらいの、だぶだぶのルパシュカ(ロシア風のシャツ)を着た男を、突然背後から羽交い締めにしました。
「留吉、あきらめて、おらといっしょに死んでけれ。……な、な……頼むすけ」
羽交い締めにし、力任せに泥洲(どろす)のほうへ引きずっていきます。
そこから川岸までは、十歩もありませんでした。
留吉という痩せた青年は、ハエのように忙しなく手先を動かしながら、必死の声で懇願します。
「待ってけれ、親爺、頼むから、待ってけれ」
「おらのほうも、頼むから……頼みだから……」
「あぶねえってのに……ちょっと……ちょっと、この手ばどけてけれ……」
そう言いながらも、ずるずると引きずられていきます。
見るに堪えない様子で、老人は青年を川岸まで引っ張っていくと、
「いっしょにな、留」
そう言って、横ざまに泥洲の中へ突き飛ばしました。
留吉は「うわアーッ!」と絶叫し、頭から先に泥の中へ平らに落ち込みました。
間髪入れず、老人もまた鎖に引かれるようにして、ズブズブと足から、陰険な表情を浮かべた泥川の中へとはまり込んでいきました。
泥の上を流れる浅い川面に、留吉の手の先らしいものがちらりと見えましたが、それも一瞬のことで、あとは何も残りませんでした。
老人のほうは、泥の上に胸から上を出して立っていましたが、腕から肩、胸から喉へと、まるで風呂にでも浸かるかのような様子で、ゆっくりと沈んでいきます。
やがて顎が泥に達しました。
咳払いのような音を一度立てて、彼はこう呟きました。
「帰ったら、おらの餓鬼どもに、いいあんべえにいっとおいでけれ。……ンだば、さいなら……」
唇が動いただけで、最後の「さいなら」はよく聞こえませんでした。
しかし、がぶっと自ら泥の中に顔を突っ込むと、それっきり、二度と姿を見せることはありませんでした。
残りの六人は川岸で、腑抜けのような顔をして、ぼんやりと眺めていました。
誰一人として、言葉を発する者はいませんでした。
モローゾフが、ナターシャに囁きました。
「つまり、動物的敏感というやつですね。私も、あの足の悪い老人は置いていくつもりでしたから」
そう言って、革外套のポケットから拳銃を取り出すと、
「あまり、ぞっとしない役割ですね」
やりきれないといった顔で、少しだけナターシャに微笑んで見せ、それから監視人のいる小屋のほうへ大股に歩いて行きました。

四、地獄の入口

山の頂には、強い風が吹いていました。
一行は一列になって、火口の外輪を廻り込みます。
三千万年前に死滅したこの火山は、どの岩も古めかしく、縄状熔岩がいたるところで縄のようにねじれ合い、黒や鉄色、あるいは赤みがかった岩肌が、垂直に無限の暗闇へと切り立っていました。
瘴気のような薄い霧。死んだ岩と熔岩。
この永遠の沈黙の中で、一羽の黒鷹が、ゆるゆると輪を描きながら飛んでいます。
まるで地獄のような景色でした。
山の上には十二人の人間がいました。
沈着な面構えをした篁栄二郎以下、六人の漁師たち。
調査隊側からは、ヤロスラフスキー博士とモローゾフ教授、そのほかに六人の学術部員が見送りに来ていました。
六人の漁師たちは、みな見上げるような大きなリュックサックを背負い、安全灯やロープ、手斧、その他雑多な道具を腰に差したり吊るしたりしています。
おびただしい装備の中で、彼らの大きな身体は埋没しかけていました。
一同はリュックサックをおろして、頂上の岩陰でひと休みしました。
漁師たちは誰一人として、不安な顔は見せていません。
むしろ、意固地にも見えるくらいに冷静な表情を浮かべていました。博士が六人に一人一本ずつ巻き煙草を配ると、彼らはそれを丁重に受け取り、ゆっくりと燻らせ始めました。
これから自分たちがどれほど常軌を逸した挑戦をしようとしているのか、彼らはまるで実感していないようでした。
予測不能な数々の危険。飢え。渇き。押しつぶされる恐怖。窒息。大怪我。そんな災厄が行く手に立ちふさがり、自分たちを待ち構えていることに、彼らは全く無頓着だったのです。

出発の前夜のことです。
博士は一同に対し、この旅で起こりうる様々な危険と、それがどれほど困難を極めるものかを説明しました。
六人の漁師たちは、黙って聞いていました。
篁(たかむら)という六人のリーダー格の男が、ゆっくりと顔を上げ、どっしりとした太い声でこう言いました。
「なアに、わすら、やってみるです」
そして、仲間のほうを向いて「な?」と同意を求めると、全員がいっせいに頷きました。
どの顔も落ち着き払っており、恐怖の色など微塵も浮かべていませんでした。

博士は「熔岩隧道(ようがんずいどう)」というものについて、そしてロバトカ山のトンネルの現状を、誰にでもわかる言葉でできるだけ詳しく説明しました。
ロバトカ山の暗い斜道は、東へ一キロほど進んだところで緩やかにカーブし、東南東へと下っています。そこからさらに一キロほど先で道は二手に分かれます。一つは青い粘土を挟んだ硬い岩盤で行き止まりとなり、もう一方は分岐点から二百六十メートルほどの場所で、「変朽安山岩(へんきゅうあんざんがん)」によって塞がれています。
このプロピライトという岩石は、安山岩が風化して輝石類が緑泥化したもので、掘れば掘るほど天井から崩れてきて、どうしてもその先へ進むことができません。
つまり、調査隊の一行は十ヶ月もの間、このプロピライト層と空しい格闘を続けていたのです。

博士の推測では、プロピライト道は断念するほかなく、安山岩の岩盤をダイナマイトで破壊して、本来のトンネルの口を探すことだけが最後の希望でした。しかし、その上の天井は石泉(地下水)の作用で軟らかくなっており、ダイナマイトなどを使えばどんな危険が起こるか予想もつきません。
そうした躊躇から岩盤破壊の決心がつかず、プロピライト道のほうに一縷の望みをかけて、これまで無駄に掘り続けてきたのでした。

これに対しても、篁は「なアに、わすら、やってみるです」と、同じ返事をするだけでした。
博士の話によってトンネル内の危険な様子が明らかになればなるほど、彼らはますます昂然とした意気を見せるのでした。
博士の心のどこかには、危険を強調して、できることなら思いとどまらせたいという気持ちがありました。しかし、彼らの様子を見ていると、どんな制止も無益であることを悟りました。
どうしても翻意させることができないと見て取ると、今度は博士も真剣になり、地下旅行の様々な注意を与え始めました。

地下旅行でもっとも困るのは飲料水の問題ですが、地下には石泉があるため、できるだけそれを活用するようにと教えました。岩壁に耳を当てれば、地下を流れる石泉の音が聞こえます。そこを目がけて掘れば水にたどり着けますが、物凄い勢いで噴出するため十分に注意しなければなりません。
溢れ出た石泉をすぐに飲もうとすると大火傷をするため、何かに汲んで十分に冷ましてから飲むこと。

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