初級翻訳・蝶の絵 第10話

久生 十蘭

後になって、いくらか気持ちは落ち着いたものの、あのとき猿から受けた強烈なショックからは、結局最後まで逃れることができなかった」
津村の父親からあの猿を引き取り、自分の寝室に閉じ込めたのはその場の思いつきだったが、それ以来、猿の喋り声に悩まされるようになった。
山川以外の人間が見れば、ただの「ありふれた猿の鳴き声や仕草」にしか見えないようなことでも、山川の耳には、はっきりと意味を持った言葉として聞こえてくるのだ。お酒に酔ってぼんやりとしがかりになると、まるで津村の声で「おい、酒を注げ、注げ」と話しかけてくるように感じられるのだった。はっとして眼をさますと、猿はなにごともなかったような顔で、後ろ足で首の後ろのあたりを掻いたりしている。
気のせいだと思い込もうとして、再びうたたねをしようとすると、今度はそれが津村の癖だった、鼻にかかった調子で「ふふん」とせせら笑うのだった。
こうしたことが何日も続き、どうにもやりきれなくなって須田のところへ様子を聞きに行ったが、うまくはぐらかされて帰ってくるしかなかった。
猿を殺したのは、そうした理不尽な精神のプレッシャーに、それ以上耐えられなくなったからだった。
一月のはじめにリーナが死んだ。
リーナに対する山川家の扱いは、世間に対する見せかけほど冷酷なものではなく、実際には生活に困らないだけの金額を毎月こっそりと渡し、その恩恵によって縛りつけておいたのだった。
リーナが死んだときも姉の常子が行って、後々問題が起きないようにしっかりと始末をつけ、これでようやく厄介事が片付いたと胸をなで下ろしたものだった。だが山川のほうは、自分の秘密を共有している存在がいることで、むしろ心の慰めを得ていた部分もあったため、リーナの死によってその逃げ道がふさがれ、どうしようもない孤独感でおしつぶされそうになった。
山川は、この耐えがたい精神的重圧から一刻も早く解放されたいという願いに取りつかれ、町でMP(憲兵)に出会うと、「もしもし、実は僕はね……」とすべてを打ち明けたい衝動に駆られ、それを必死で抑え込むために冷や汗を流す毎日だった。
一月の終わりのある夜、山川は母と常子に対して、「もう精神的に限界だ、自首することにする」と切り出した。それを聞いた二人は仰天し、そんなことをすれば、まさにまとまりかけている慧子の縁談はもちろん、今日まで苦労して積み上げてきた山川の社会的な信用も、宮家との結びつきも、何もかもがすべて水泡に帰してしまうと猛反対した。
「いくら苦しくとも、そんなユダのような裏切り行為は絶対に許しません。お願いだから、それだけはやめてちょうだい」
戦争未亡人になっていた下の姉の朝子までが慌てて駆けつけてきて、涙を流しながら必死で自首を思いとどまるよう説得するという、劇的な状況になった。
「それならいっそ死ぬしかない」と山川が突っぱねると、「キリスト教では自殺は最大の罪悪です。そんなことをしたら、あなたのこれまでの信仰生活を完全に絶命させるようなものです」と家族たちはすがりついた。
山川家の面目を保ち、それによって生じる世間の疑惑や社会からの批判を何とか避けるためには、事故による過失死を装うほかには道がない――最終的に彼らはそこへたどり着いたのであった。
こうした山川の思考回路は、深く考え抜かれたものと言えばいいのか、それともあまりに浅はかと言えばいいのか。
要するに、山川の人生は、自分自身も含めて、あらゆる方向へ気兼ねばかりしている、どうしようもなく臆病な人間の歴史そのものだった。
この絵の画面に広がる曖昧な灰白色の部分は、空なのだろうか、それとも水なのだろうか。
この蝶は、今まさに飛んでいるのだろうか、それともただ流されているのだろうか。
血のような赤と骨のような白の配色がされた翅を持つ一匹の蝶が、寂れた空間の中に、見るからに危うげな様子でかかっている。
山川の手紙には直接書かれていなかったが、マリポサ(蝶)の正体は津村ではなく、実は山川自身だったということは、様々な事情から、今やもう誰の目にも明らかになっていた。
この絵に描かれた蝶は、まるで山川の生涯そのものを痛烈に皮肉っているかのようでもあった。
桐ヶ谷へと向かう道は、やけに長々と感じられ、もの悲しく、様々な思いを巡らせずにはいられなかった。
斎場の待合室には、山川家とつながりのある大学の学長や、博士号を持つ人々、その夫人たちといった、いかにも利口そうで、抜け目のない顔ぶれが、宗教的な偽りの慎ましさをまといながら、しおらしく控えていた。
それから二時間ほどすると、あのひょろりと長かった山川の身体が、ほんの少しの骨の集積となり、まだ熱を帯びた温かいまま、みんなのところへと戻ってきた。
山川の骨は、白や、薄鼠色、そしてテール・ド・ナチュレルのような枯れ葉の褐色が混ざり合い、ユトリロが描く白壁のような枯淡の味わいを醸し出しながら、風が吹けばすぐにでも飛ばされてしまいそうなほど洒脱なスタイルで、鉄板の上にポツンと載っていた。
係員が小さな箒でその遺骨を真ん中へと集めようとすると、山川の骨はまるで蝶の鱗粉のように軽やかに舞い上がり、参列者一人ひとりの鼻の孔へと、丁寧に形見分けをして回ったのだった。

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