初級翻訳・蝶の絵 第3話

久生 十蘭

われわれ人間のほうは、低蒙で野蛮で、垢だらけになって、眼ばかりギョロギョロさせ、一枚のガネモの葉のやり奪りから、すごい斬りあいをやる……猿を殺すにしても、その残忍さときたら、お話にならない。
見ていると、人間が猿を殺しているんじゃなくて、猿が人間を殺しているような、へんな気がしてくる。
他人のことじゃない。
顔に猿の血をつけたまま、猿汁をつくっているところなど、われながら、人間だなんて思えない。
一日ごとに、動物に近くなって行く経過が、はっきりとわかって、この分じゃ、たとえ生き残っても、二度と人間社会へ帰-行けないだろうという自覚と絶望で、気がちがいかけたことがある」
 やはり昂奮しているのだとみえ、無口な山川が、いつになく、つくづくと念頭の考えを洩し、疲れたといって、一人で先に帰った。

二

 東京裁判が最終論告の段階に入り、横浜裁判と平行して、俘虜部門の弁論がはじまったころ、厚木の早朝ゴルフの帰り、思いついて山川のところへ寄ると、妹の慧子が出てきて、
「兄は、いま、おつとめなんです」
 と笑いながらいった。
そういえば日曜日で、山川の家庭礼拝のある日だった。
広縁で煙草を喫いながら待っていると、柴垣のむこうで、姉の常子が植木屋と話している声がきこえる。
「池まわりも、荒したままじゃ置けませんから、いずれ、お入れになるのならと思いまして……低いつくりものですと、てっせん、うずら梅、あせび、どうだん、山茶花といったようなもの。
汀石の控えに、うってつけな、赤斑の霧島なんかもございますが」
「花はどうかしら……みな、抜かせてしまったくらいだから、いってはみますが、無駄でしょう」
 死んだ山川の父は、「百花村」の秋公のような花好きで、池の汀に紫苑を植え、中門の楯に紫苑園という朽木の額をあげていた。
シヲンヱンではない。
「シヲンの園」と聖書風に読まなくてはいけないので、山川の庭では、花そのものにまで信仰の結晶が見られるわけだったが、夏の朝など、あじさいや庚申薔薇が風にそよいでいたあたりには、花らしいものの影もなく、荒々しい青葉が、ぼうぼうと乱れをみせて猛っていた。
「ひどく荒したもんだね」
「まだ、ごぞんじなかったのね。
兄が、花のある庭は下品だと言って、みな抜かせてしまったの」
 花庭をきらうひとはあるが、花のある庭が下品だなどということはない。
どこか調子をはずした庭の荒れかたを見ていると、山川の頭の乱れがわかるようで、不気味になった。「礼拝はまだ終わらないのかい? おつとめっていうのは」
「お兄ちゃんね、お風呂場の水道の蛇口の下に大きな洗面器を置いて、石けんの泡を立てて、スポンジで一日に何度も何度も手を洗っているの……おつとめっていうのは、そのことなのよ……帰ってきたばかりの頃は、お風呂場を水浸しにして、一日中洗濯をしていたわ。
汚れもしないハンカチまでひっぱりだして、布地がすり切れるほど洗いあげたりして……。
そのほうは落ち着いたみたいだけど、手を洗うほうは、まだまだやっているわ……」
 一日に何度も手を洗ったり、お風呂に入ったり、むやみに洗濯をしたりするのは、何か後ろめたい気持ち(罪感)があって、心の汚れを洗い清めたいという願望が無意識のうちに表れているのだ――それくらいのことは、精神分析の入門書を読んだことのある人なら誰でも知っている。
「なんだか普通の状態じゃないね。
ほかに、何かおかしなことはないかい?」
「ただ、もう何でもかんでも汚いって言うのよ。
この間なんか、常さんがちょっと足に触っただけで、すうっと立ち上がって行って、お風呂場で足を洗っていたわ……。
帰ってきた日なんかは、着てきた服をぜんぶ庭先で脱ぎ捨てて、真っ裸になって、庭の水やり用ホースで女中さんに一時間も体に水をかけさせて、手帳のようなものまで一つ残らず石油をかけて燃やして、それからやっとのことで家に入ってきたんだから」
 語り手はうつむいて自分の頬をなでながら、何か考え込んでいたが、
「ちょっと、こっちへ来て」
 と促され、玄関脇の広い階段を上がって、花世(はなよ)の寝室へ連れていかれた。
「これを見てちょうだい、ベッドの下を」
 のぞいてみると、バーボン・ウイスキーやギルビィのジン、サントリーの空き瓶が、「よくまあこんなに飲んだものだ」と呆れてしまうほど、ごちゃ混ぜに押し込まれていた。
「あたしたちには素振りも見せずに、こんなことをしているのよ。
朝なんか、お酒のにおいを消すのにすごく苦労しているみたい……何代も前から、山川の家にはお酒を飲む人は一人もいなかったんだから、お母さんや姉さんが知ったら絶望しちゃうわ……。
こんなものを見せたなんて、絶対に誰にも言わないでね。
山川家の内幕を見せたなんて知られたら、大変なことになっちゃうから……。
それじゃあ、階下に降りましょうか。
おつとめが終わるころだわ」
 広縁に戻ると、ぶらりとした様子で山川が入ってきた。
窓の方を向き、自分の鼻の先へ手を持っていってにおいを嗅いだり、爪の甘皮をむしったりしていたが、妹の慧子が立ち去ると、
「今の話は、なんだったんだい?」
 と探るような目で聞いてきた。
「さっき、慧子と二人で僕の寝室へ上がったろう……そんな怖い顔をしなくたっていいさ。
君だけに告白するけど、僕は軍隊で、ひどいディプソマニア(アルコール依存症)になってしまってね」
「なんだい、それは?」
「酒狂いって言うのかな。
アル中の一桁上のやつさ。
お酒が飲みたくなると、それ以外のことは何も考えられなくなってしまうんだ。
心臓がドキドキして、目の前が真っ暗になってしまう。
参ったよ」
「軍隊で堕落してしまうなんて、どの国にもあることなんだろう。
梅毒を背負いこんできて、帰るなり痴呆みたいになってしまった田中のような奴もいるしね。
その程度なら、まあ大したことないさ。
お酒が飲めるようになったのは、君にとって進歩かもしれないしな……。
それはいいとして、『汚い、汚い』って言って手ばかり洗っているそうじゃないか。
そっちの方がよっぽどあやしいぜ」
「手を洗うのはいい習慣さ。
慧子がそんなこと言ったのか?
バカだなあいつは」
「だけど、庭の花をみんな抜かせてしまったなんて話を聞いたら、誰だってぎょっとするぜ。
神経科の橋本にでも診てもらったらどうだい?
あいつは心の分析もやるから、ショックの原因を見つけてくれるさ」
「ショックだかなんだか知らないがね、他人に頭の中を検査されるなんて真っ平だね」
「戦争神経症(ノイローゼ)ってやつは、案外怖いものだと言うぜ。
変だなと思ったら、早めに手当てをしておくほうがいいな」
「変になんてことあるもんか。
南方にはカユ・メラだの火焔木(かえんぼく)だの、毒々しいような赤い花がそこじゅうに咲いているだろ。
こっちへ帰ってきてしばらくすると、庭の赤い花を見るたびに、南方の嫌なイメージが目に浮かんで、不愉快でやりきれなくなってさ……。
赤い色がどうのこうのって言うと、お母さんや姉さんたちが心配するから、『花のある庭なんて下品だ』って、適当なことを言っておいたんだよ。

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