山川さんが私を愛していたこと、結婚の約束をしたこと、あのときは嘘ではなかったのですね……つまり山川さんは、日本人にあんな目に逢った家族の生残りを、日本人の一人として、できるだけ慰めてやらなければならないという義務を感じたのですけど、いまとなっては、山川さんにとって、その負担は非常に重すぎるものになりました」
「重い、軽いって、なんのことなんだね?」
「あたしと結婚すると、立ったり、坐ったり、動きまわったりしているかぎり、日本人が比島でやったことを、思いださずにはいられないでしょう……それが、どちらかが死ぬまでつづくのだと思うと、考えただけでも、耐えられない気持がするのです。
山川さんが約束を破棄したのは、愛が消えたのでも、心が冷えたのでもなくて、そういう暗い家庭になることを恐れたからなんです」
「それは、はじめからわかっていることだ。
いまになって、そんなことをいいだすのは、口実というもんだよ」
「山川さんだけではなく、あたしもそう思うようになりました。
かわらぬ愛さえあれば、思い出などは踏みこえて行けると、単純に思いこんでいましたが、まちがいだったようです……熱がさめて、冷静になったとき、結婚したことを後悔したり、責めあったりするのだったら……消すに消せない思い出を間に挾んで、いつも、それを通して、お互いの顔を見あわさなければならないようになるなら……」
「山川がそういってきたんだね」
「それに、あたしはスマトラの戦犯裁判で、証人に立って、日本人の罪を証明したことがあります。
それを忘れていました……どんなことがあっても、山川さんと結婚できない関係になっているんです。
悲しいけど、あきらめるほかはありません」
「リーナ君、君が告発したのは津村だったんだね、『蝶』といわれていたやつ……」
リーナは眼を伏せたきり、それには答えなかった。
言おうとすることはよくわかる。
言葉のもつ真実味にうたれ、敬意と同情を感じながら聞いていたが、リーナという娘は恋に眼が眩み、山川のべつな姿をつくりあげているらしい。
われわれの知っている山川とは似もつかぬもので、張合いぬけがして、力が入らなくなった。
「とりとめのないことになったね」
「だからって、放ってはおけない。
あれじゃ、すこし、ひどすぎる。
おれは、これから山川のところへ行くから」
そういって、新宿で岩城と別れた。
日暮れ近く、山川の家に着くと、玄関のそばの槐の葉繁みの中で、チラと黒い影が動いた。
子供でものぼっているのかと思ったら、いつかのオランウータンが横枝にとまって、ヒラヒラ動く枯葉を、ギリシャの賢人のような顔で眺めていた。
客間で待っていると、四十五歳の老嬢が、皇后さまの宮中服を真似た、みょうな着付で出てきた。
「花世はね、風邪気味で、三日ほど前から、ひき籠っています……慧子のほか、誰も寄せつけないの。
ご用でしたら、あたくしがうけたまわっておきましょう。
どんなこと?」
「リーナという娘のことで……」
「あの娘ね……そうそう、二度ばかり、家へ来たことがあるわ。
色は、黒いってんじゃないけど、どこか煤っぽくて、愛嬌でもあればのことですが、そんなところもなく、すがれ野菊といった面白味のない娘……愛情というのも、ずいぶんへんてこなものなの……花世の手に、ちょっと触っただけで、昂奮して、眼のなかを白くして、痙攣けてしまうというすごい過敏ぶり……気が触れてるんじゃないかと思ったくらい。
いつかなども、やってきたのはいいんですが、話もなく、いきなり泣くばかりで、扱いかねて、あぐねちゃったわ。
それであなた、どうしてアレをごぞんじなの?」
「今日、岩城南光に、紅葉を見ようって誘いだされて、欺し討ちみたいに、あのひとに紹介されちゃった……ひどいところにいたよ」
「そういっちゃ、なんですけど、自業自得よ。
無計画性……空想的な娘って、たいてい、そうしたことになるものよ。戦後のゴタゴタの間、現地で花世が世話になったこともあるそうですが、それにしたって、日本まで追いかけてくるなんて、非常識きわまるじゃありませんか」
「恋愛って、もともと非常識なものなんだが、僕が聞いたところじゃ、約束をして山川君が連れだしたんだそうだから、相手が純真すぎたというところかな」
常子は冷やかな微笑をうかべながら、まじまじしていたが、
「あなたも駄目ね。
花世ってものを、ちっともわかっていらっしゃらないじゃありませんか……あらゆる真実が、かならず人を動かすものでもなく、純真さが、いつも人をうつとはきまっていません。
相手によっては、誠実に扱ってはいけない場合もあり、嘘をまぜてものをいうほうが、徳をしめすことだってあるんです。
必要があれば、花世は百遍だって約束するでしょうし、破りもするでしょう……女子部じゃ、百五十人からのむずかしい方たちを、のぼせあがらせたり、冷やしたり、自由自在に扱っていたんですから、一人の女ぐらいで、感情の理路を誤るようなことはありませんわ。
あんな場ちがいな娘に、どうこうしたなんていわれたら、花世は心外に思うでしょう。
あんなにまでつき詰める女だと、洞察できなかったのは失敗でしたが、だから、気がついて、すぐおさめてしまったようでした……あの娘、なんといっていた? もう花世を恨んでいないといったでしょ」
「そういっていました。
山川君に、うまくしてやられたわけですかね」
「お話を伺うの、忘れていたわ……ご用はなに?」
「……岩城のような、うるさいやつもいるんだし、新聞記者に突っつかれて、こちらの名が出るようでも困るから、もうすこし、ましな病院へやるほうがよくはないかと思って……お節介みたいだけど」
「それはどうも、わざわざ……でも、そんな手数をかけることはないのよ。
放っておけば、自然に解決する問題なんです。
医者は、この冬は越せまいといっているそうじゃないの。
お聞きにならなかった?」
「なるほど、それもそうだ。
時は最大の調停者か……むかしのやつは、うまいことをいうよ」
「そうなるように、願っているわけじゃありませんが、死ぬものなら、しようがないでしょう。
神さまが、お召しになるのですから」
二階のほうで、なにかザワザワしているようだったが、そのうちに、取組みあいでもするような、荒くれた音になった。
「なんでしょう」
常子がけげんな顔で聞耳をたてているうちに、ドタバタ騒ぎはいよいよ爛熟して、駆けまわる足音に猿の叫び声までまじっている。
奥の間につづくドアから、慧子と寝間着を着た山川の母が出てきた。
「ごめんなさい、こんなうまい装で……常さん、あれはなんのさわぎなの」
「さあ」
「さあ、なんていっていないで、見ていらっしゃいよ……慧子さん、あなたもそんなところに立っていないで」
籠ったような銃声が、めちゃめちゃな調子で、六発まできこえた。
「二階にいるのは、山川君だけですか」
「いいえ、猿がいます」
なにもかも見透したような声で慧子がこたえた。
階段を踏みとどろかす音がしたと思うと、焦点の定まらない、熱にうかされたような眼つきで山川が客間へ入ってきた。
「どうしたんだ」
「猿が、へんなことをやりだしてね。
初級翻訳・蝶の絵 第7話
久生 十蘭
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