初級翻訳・蝶の絵 第4話

久生 十蘭

まあ、あそこまで全部抜かすことはなかったんだけどさ」
山川は言い訳がましいことを口にした。
ことさら話を難しくしているが、あいにく、そんな見え透いた嘘(あや)に騙されるほど幼稚ではない。
山川には何か悩みがあって、それを他人にのぞかれたくないのは明白なのだが、先回りして余計な弁解をするものだから、ああでもないこうでもないと辻褄が合わなくなり、かえって相手に疑念を抱かせる結果になってしまっている。
頭の悪い男ではないし、生活の先行きもしっかり見据えている男なのだから、ここまで論理の筋道が立てられなくなっているのは、「精神の衰弱」という理由以外には、とても説明のつかないものであった。「大寺を包みてわめく木の芽かなってのは、子規の句だったか。
軽井沢などに住んで、半月も青葉にかこまれて暮していると、むしょうに赤い色を見たくなることがある。
木の葉ばかり猛らせておいて、よく平気でいられるもんだ」
 山川は庭の青葉のむらだちをながめていたが、椅子の背に頭を凭せて眼をとじると、瞼のところを指先でグリグリやりだした。
「花のない庭は、たしかに疲れるね……津村が財産税の穴埋めに、庭木を売りたいといってきているんだが、どうしようかと考えているところなんだ」
「津村って、宇太郎のおやじか」
「そうなんだ……津村のところなら、いいものがあるんだろうが、おやじに逢うのは気が重くて……いつだったか復員の挨拶に行って津村のスマトラ時代の話をしたら、泣かれて弱った」
「それァ、うれしくはないだろう。
兵隊の君が助かって帰ってきて、司政官で行った倅のほうが死んだというんじゃ」
 津村宇太郎は、須田や山川などと一中から東大までずうっといっしょで、警保局の高等課に勤務しているうちに、司政官にひきぬかれてスマトラへ行き、終戦でキャンプに抑留中、病死したことになっていたが、その後、スマトラから復員した連中の話では、病死ではなくて、戦犯のケースにひっかかって絞首刑になったというのが真相らしかった。
「津村は、スマトラでどんなことをやっていたんだ」
「官房長になって、大理石づくりの官邸で威張っていた……浴衣がけでソファに大あぐらをかいて、ひどい椰子酒をあおりながら、おれはここの王様だ。
土侯をおさえつけるのが司政長官で、司政長官をおさえつけるのが官房長だから、おれはさしずめキング・オブ・キングスというところさ……なんて、あられもない発揚状態なんだ。
あの利口なやつが、すっかり駄目になっていた」
「あいつは病気で死ぬような奴じゃないから、噂どおり、死刑だったんだろう?」
「だろうと思うね。
あそこの司政長官は、相当、原住民を痛めつけたはずだから、つながる縁で、津村もやられたのかもしれない」
「君は知らないのか。
おれは知ってるんだとばかり思っていた」
「バタヴィアのチプナン刑務所へ送られたことは聞いたが、間もなく僕の部隊はニューギニアへ移ったので……あのころ、岩城は弁護団側の通訳をしていたから、岩城なんかのほうがよく知っているかもしれない」
「津村のおやじはどうなんだ」
「噂くらいは聞いているだろうから、うすうすさとっているんじゃないのか。
むっつりして、酒ばかり飲んでいるそうだ。
庭木を売りにだしたというのは、財産税のためよりも、田舎へひっこむ支度らしいね」
 そんなことをいっているうちに、心がきまったらしく、のっそりと椅子から立ちあがった。
「見るだけ、見てみようかな……どうだい、すぐそこだから、いっしょに行ってみないか」
 植木屋を連れて、三人で近くの津村の控邸へ行くと、下町の古舗の大旦那といった上品な老人が、巻帯に白足袋といった恰好で、縁の落ちた数寄屋風の離屋から出てきた。
「山川さんでしたか……ろくなものもございませんが、ごらんねがいましょう」
 小径づくりになった飛石を踏み、棕櫚繩を結んで買いとる庭木に目じるしをつけながら、地境のほうへ行くと、塀際の鉄棒をはめた飼箱のなかに、二歳くらいの猿の子供が、からだじゅうに乾いた泥や藁屑をこびりつかせ、所在なさそうに立膝で坐っていた。
山川は足をとめてチラと一瞥すると、ジャングルで猿を殺して食ったことでも思いだしたのか、よそ目にもわかるほど嫌な顔をしたが、いつもの弱気で、
「オランウータンがいますね」
 と相手の気をひくようなことをいった。
「オランウータンとゴリラは、日本の動物園にいたことはありませんでした」
「あれは終戦の三月ほど前に、内地に帰ることに内定していたのだそうで、東条さんにあげるつもりで燃料廠の船で先に送りだしたものらしい。
燃料廠から、荷物がついているから取りに来いというので行ってみましたら、こいつが出てきたのには、私もおどろきました」
 猩々の子供は胸のあたりを掻きながら立ってきて、鉄棒につかまってしげしげと山川を見ていたが、長い毛の生えた腕をつきだし、愛想をするように山川の肩に手をかけた。
津村は意外だったらしく、
「おや、こいつは山川さんを知っているのだとみえますね」
 と、うれしそうにいった。
山川は苦笑しながら、
「津村君がスマトラで飼っていたのによく似ていると思ったら、やはりそうだった」
 と弁解するように呟いた。
猩々の子供は山川の注意をひくつもりか、叫んだり檻をゆすぶったりして騒いでいたが、そのうちに繩っきれを首に巻きつけ、牡丹の花のような赤い口を喇叭式にあけて、クゥと啼いてみせた。
「どうしたというのでしょう。いつもは、こんなことはしないのですが」
「スマトラにいるときは、津村君の真似なんかして、面白いやつでした。
あばれることもあばれますから、お世話がたいへんでしょう」
「この春まで、末の子供がかかりっきりで世話をしていましたが、それが死んでからは、どうにも手がまわりかねましてね。
それに、こういうものを飼う手心もわきまえませんもので、正直なところ、荷厄介で弱っておりますよ」
「上野へおやりになったら?」
「上野へやろうと思いましたら、設備がないから、もうすこしそちらに置いてもらいたいと、こういうことでして……」
 いかにも困りはてたというふうだった。
山川はなにか考えていたが、
「上野へやるあいだ、私がお預りしましょうか。
私に馴れているようですから」
「もう、そうねがえたら」
 帰る間もなく、植木屋の若いものが、追いかけるように猿の檻を手車で曳きこんできた。
「これはどうも、さっそくだね」
 飼箱から猿の子供を出して、二階の居間へ連れこむと、山川は女中にいって乾杏を持ってこさせた。
「オランウータンには、ずいぶん借りがあるんだから、罪ほろぼしのつもりで、当分、飼ってやろう」
 猿の子供は窓框のうえに坐って、頭を掻いたり貧乏ゆすりをしたりしながら、皿の乾杏をもの欲しそうに見ていたが、そばに垂れているカーテンの紐を首に巻きつけると、踊るような恰好でヒョイヒョイと飛びあがった。
「気味の悪いやつだな。

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