初級翻訳・キャラコさん 第9話

キャラコさん

「越智氏、まア、そんなに嘆くな。
見損ったのは君ばかりじゃない。
ひとの分まで落胆してくれなくてもいいよ」
 ポン君が、いった。
「それにしても、いい商売をしやがったな。
いったい、四十万だろうか、五十万だろうか」
 ……社交室のピアノのうしろでキャラコさんがきいたのは、大体このようなことだった。
キャラコさんが入ってきた時には、この部屋には誰もいなかった。
キャラコさんは冗談に、『休憩室』と呼んでいるピアノのうしろの狭い三角形の隙間へはいり込んで、いつものように『コロンバ』のつづきを読んでいると、ワニ君の一団がドヤドヤと飛び込んで来て、いきなり話をはじめたので、いまさら出ることもできず、息をひそめて竦んでいるほかはなかった。
沼間家が一文なしになったことも、沼間夫人の遠謀も、猪股氏と槇子の婚約も、みな、意外なことばかりだったが、そうとなると、叔母が、なぜ自分を無理にこんなホテルへ誘って来たか、その目的がはじめてはっきりと了解できた。
この競売を一層効果的にするために、時局柄、光栄ある石井長六閣下の愛嬢を、近親として手元にひきつけておく必要があったのだ。
キャラコさんはまだ一度も槇子たちの身分をうらやんだことはない。
反対に、不幸だとさえ思っていたが、その不幸は、キャラコさんが考えていたよりも、もっとひどいものだった。
しかし、槇子のほうは、愛情より真実より金の方が大切な娘なのだから、こういう身売りを格別不幸だとも思っていまい。
キャラコさんは、ためいきをつきながら、そっと呟く。
「マキちゃんは、貧乏では一日も暮らせないひとなんだから、いちがいに責めるわけにはゆけないわ。
そんなふうにばかり育てられてきたのだから。
……あたしとは、わけがちがう」
 戸外で騒がしい声がするので、キャラコさんは、ふと、われにかえった。
五六人のひとが、きれぎれに叫びながら、海岸の方へ駆けてゆく。
ワニ君たちは窓から首をつき出して、駆けてゆくひとになにか問いかけていたが、すぐ、
「大変だ、大変だ」
 と、わめきながら、あと先になって社交室から飛び出していってしまった。
キャラコさんは庭へ出て、海岸へおりる石段の上まで行って見たが、波打ち際で走り廻っている大勢のひとの姿が見えるばかりで、何がおこったのかわからない。
石段を駆け降りて、ギッシリと浜辺に立ちならんでいる人垣のうしろまで行くと、その向うから、何かききとりにくいことを、繰りかえし繰りかえし叫んでいる甲高い女の叫び声がきこえてきた。
叔母の声だ。
すぐ前に、アシ君が蒼くなって、眼をすえて海のほうを睨んでいる。
キャラコさんがしっかりした声でたずねる。
「葦田さん、なにがあったの」
 アシ君は、ふりかえると、肩越しに、喰ってかかるような口調でこたえた。
「マキちゃんが、潮吹岩までボートで行って見せるってがんばるんだ。
いくらとめても、どうしてもきかないで、とうとうひとりで行っちゃったんだって」
 キャラコさんは、のび上って沖のほうを見たが、ボートらしいものも見えない。「ボートなんて、どこにも見えないわよ」
「バカだなあ、ボートがひっくり返って、おぼれかけてるんだよ!」
お昼を過ぎてちょっとだけ顔を出したうす日は、また雨雲に隠れてしまい、すみ色のあれている空の下で、冬の海が白い波のしぶきをちらして荒れ狂っています。
見上げるほど高い波がいくつも重なって岸に押し寄せては、大砲のようなすごい音を立ててくだけ散ります。
岸から五町(約五百メートル)ほど沖のあたりに、ケシの花みたいなうす赤い色が、浮いたり沈んだりしています。
波にゆり上げられてチラッと見えたかと思うと、すぐ次の波の下に消えてしまうのです。
もう、これ以上何も見たくありませんでした。
あんなにきれいなマキちゃんが、自分のすぐ目の前で命を落としてしまうなんて。
「マキちゃん……ああ、どうしよう、マキちゃん!」
自分でも何を言っているのか分かりませんでした。
キャラコさんは、マキちゃんの意地悪だったところもワガママだったところも、ぜんぶ忘れてしまいました。
「どうか、助かってちょうだい!」
この瞬間、キャラコさんは、お父さんよりも、お母よりも、兄弟よりも、マキちゃんのことが好きだったような気がしました。
まわりの大人たちは、どうしていいか分からず、
「早く船を出せ!」
「ホテルのモーターボートはどうしたんだ!」
などと大声で叫びながら、ウロウロと浜辺を走り回るばかりで、すぐに行動するためのいい考えが思い浮かばない様子でした。
なにしろ一月のことですから、ホテルのモーターボートは倉庫の中にしまわれていて、そう簡単には引っ張り出せません。
こうなったら漁船を出すほかありませんが、ホテルの庭番がそちらへ走っていったものの、ここから一番近い漁師の家までは約十五町(約一キロ半)もあります。
人垣の向こうで、なにやら激しく言い争う声がするので、キャラコさんがそちらを振り返ると、あの『恋人』と呼ばれていたおじさんが、いま大急ぎで服を脱ごうとしているところでした。
まわりの人たちが「やめろ、危ない!」と必死で止めようとしていたのは、その声だったのです。
この荒れ狂う海の中へ、あの年老いたおじさんが飛び込もうとするなんて、どう考えても正気の沙汰ではありませんでした。
みんなが息をのんで見つめる中、『恋人』は素早く服をかなぐり捨て、引き止める人たちの手を振り切ると、水しぶきを上げて海の中へ飛び込みました。しかし、最初の高い波が、『恋人』を勢いよく岸へたたきつけてしまいました。
岸にずらりと並んだ人たちの口から、一斉に、
「ああ……!」
と、叫びともうめきともつかない声がもれました。
キャラコさんは、思わず両手で顔を覆いました。
すぐ耳のそばで、
「あっ、頭を出した! 頭を出したぞ!」
という声が聞こえました。
顔を上げてみると、波に打たれて沈んでしまったと思った『恋人』が、波の下を何度もくぐり抜けながら、落ち着いた様子で沖のほうへ泳いでいくところでした。
『恋人』の体は、あっという間に波に押し上げられ、沈められ、また浮かび上がります。
激しくもみくちゃにされ、ゆすられ、押し倒されそうになりながらも、やせ細ったその初老の男性は、まるで二十代の青年のようなすさまじい気力と絶対にあきらめない根性で、ジリジリとマキちゃんの方へ近づいていきます。
それは、自然の恐ろしい暴力に立ち向かう、人間の勇気そのものの姿でした。
しかし、マキちゃんが浮き沈みしている場所は、まだ遠くでした。
『恋人』がいるところから、まだ三、四町(三百〜四百メートル)も沖だったのです。
早くたどり着いて!
それにしても、無事にたどり着くことができるのでしょうか。
あまりにハラハラして、まわりの誰も真っ直ぐ見ていられないほどでした。
「しっかり頼むぞーっ!」
だれかが大声で叫びました。
ほとんど泣いているような声でした。
「負けるな、がんばれーっ!」
キャラコさんも大声で応援しようと思いましたが、のどがつまったようになって、どうしても声が出ません。
それは、永遠に終わらないのではないかと思うほど長い時間でした。

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