「さあ、お芳の番だ」
七の目は蛇のように水面から丘を見つめつつ、力強く泳いだ。
しかし、彼の影が丘へ近づくと、そこから一艘の小舟が急流に乗って下流へ離れていった。
七もすぐに激流へ身を任せた。
舟はやがて浅瀬の砂利に底を噛まれて、棹(さお)が利かなくなった。
七はぬっと半身を上げると、じゃぶじゃぶと歩き出した。
――あっ。
七が声を上げた時、舟の中から女の影が水へ飛び込んだ。
白い泡が絞り染めのように浮かんだ。
七はまた必死に泳いだ。
「死ぬぜ、死ぬぜ、おれの自由になっていねえと」
やがて七は、藻のようなものを手にからみつけながら、遥か下流の岸へ泳ぎ着いていた。
泣く力もない白い腕が、彼の足に巻きついたまま、水際をぐんにゃりと離れた。
× × ×
粋な町、善光寺の権堂には、七の馴染みの場所が多かった。
巽屋(たつみや)という茶屋の二階で、彼の顔が頬杖をついていた。
千曲川のことがあってから、三日目の宵である。
「きょうは星祭りだなあ、お芳」
後ろを向くと、部屋の隅で行燈(あんどん)の灯りにも顔を上げられず、ほつれ髪の影が胸へ手を差し入れ、しょんぼりと俯(うつむ)いている。
「なあ、お芳。――祭りだぜ、秋の銀河祭りだ。そうそう、去年の今ごろはてめえとよく会っていたなあ。銀河の下に寝て、ふたりとも風邪をひいたこともある」
「……すみません。ほ、ほんとうに、すみませんです」
「何をよ、よせやい」
「か、かんにんして……」
「おら、怒ってやしねえってことよ」
「そう言われるのが苦しいんです。斬られるよりもつらいんです。い、いっそ千曲川で私ゃあ……」
お芳は大きな声で泣き伏した。
「死んじゃつまらめえ。おめえみたいな性質(たち)の女は、まだまだ沢山男に縁があるぜ。これから毎年、どんな銀河まつりの晩を送るか、わからないことさ」
「殺して下さい」「こんな……こんな苛めかたをするよりも」
「俺は口癖のように言ってるが、花火師なんだぜ。どうせろくな根性じゃねえ。こじれているうちはどうしようもねえんだ。けれど、その代わりさっぱりする時は、竹を割ったように気持ちがいいもんさ」
「後生でございます、手を合わせますから……七之助さん。わ、忘れてください」
「だからよ、俺のこのモヤモヤが晴れるまで待ちねえってことよ。な。俺はお前に拝まれて往生するほど善い人間にできていねえ、不幸せ者なんだ」
「…………」
「おう、おう、町は祭りだし、空は星だ。色紙を竹につけて子供が担いで回っているよ。いいなあ、子供は……」
頬杖の姿勢を直して往来を眺めていたが、何かを見たのか、ぎくっとしてお芳のそばへ身を退いた。
「おい、支度をしろ」
裾をからげると、脛(すね)には脚絆(きゃはん)が巻かれていた。煙草入れ、紙入れを慌ただしく身につけ、押し入れをがらりと開けて重い包みに手をかけた。だが、少し考えて、
「駄目だ。こいつを金に換えてからと思ったが、持ち歩けねえな」
諦めたようにつぶやいて、びっくりしているお芳の腕を抱え込んだ。襖を開けて裏梯子(うらはしご)まで出てくると、階下からどかどかと駆け上がってきた松代藩の武士が、途中で真っ黒な影となって立ちすくんだ。
「あっ、七!」
「あぶねえぜ。俺の体はどこを触っても火薬玉が飛ぶんだからな」
すうっと表へ出てみたが、そこの階下も人間でいっぱいのようだった。物干し台へ出てお芳の手をしっかり握ったまま屋根へ移ろうとすると、星祭りの笹に彼女の袂(たもと)が触れ、そばにあった紅蝋燭(べにろうそく)が火がついたまま部屋の中へ転がり落ちた。自分を捕まえようとする侍たちの怒号が、七の耳にはおかしな響きに聞こえた。
善光寺の境内を走って、裏山の中腹に腰を下ろした時のことだ。彼は初めて、うしろの空が真っ赤に染まっているのに気がついた。半鐘の音も鳴り響いている。
「あ……あの蝋燭か。巽屋には世話になったのに、悪いことをしてしまったな」
その時、火事の空の中で耳が破れるような音響がした。
おやっ?
見ると、炎に包まれた巽屋の屋根から、ツツツツと細い火の柱が無数に空へと突き抜けた。凄まじい爆音は絶え間なく空に響き渡る! そして、ぱあっと空一面が花火になった。
流星、狂い獅子、七ツ傘、柳、五葉牡丹、花ぐるま。
花火に重なる花火、爆音に続く爆音。めちゃくちゃな火の乱舞、光の狂い射ち、色の躍動。善光寺の町はあらゆる色に変わって明滅した。空も地も、まるで気が狂ったかのような瞬間が起きた。
七は、巽屋の押し入れに残してきたものを思い出して、手を打った。
「あははは。あははは。笑っちゃすまねえが、笑わずにゃいられねえ。捕手のやつら、驚いたろうな。……だが今夜は、すばらしい銀河まつりだぜ」
そう言ってからお芳を振り返り、
「おい、戸狩へ帰んな。俺はこれからあてもなく高飛びだ。お父さんによろしくな」
コメント