初級翻訳・鼠 第2話

岡本 綺堂

二人は無言でしばらく顔を見合わせていたが、義助は茶屋の婆さんに向かって小声で尋ねた。
「あの毛皮売りのじいさんは何という男だね」
「あの奈良井の宿はずれに住んでいる男で、伊平(いへい)と申します」
「あの娘の名は」
「お糸といいます」
それから詳しく聞くと、お糸は伊平の娘でも孫でもないことが分かった。去年の秋、もう寒くなりかけた夕暮れに、ひとりの若い娘が落葉を浴びながら伊平の家の門口に立ち、「今夜泊めてほしい」と頼んだのだという。
ひとり旅の女を泊めるのは迷惑だとも思ったが、その頼りない姿が不憫で、伊平は宿の役人に届け出た上で、娘に一夜の宿を許した。するとその夜中に、伊平は突然の発熱で苦しみ出した。
伊平は独り者で、風邪をこじらせてしまったのだが、幸いにも娘が泊まり合わせていたので、献身的な介抱を受けることができた。
独り身の病人を見捨てては出られないと、娘は翌日も留まって看病を続けたが、伊平はなかなか起き上がれなかった。
そうして三日が過ぎ、五日が過ぎ、伊平が元の体に戻るまでには半月以上が過ぎてしまった。
その間、かの娘は他人とは思えないほどかいがいしく立ち働き、伊平を深く感謝させた。近所の人たちからも褒められた。
娘は江戸の生まれだが、七つの時に京へ移り、それから諸国を流浪して、継母にいじめられ、言い尽くせない苦労をした末に、半分は乞食同然の姿で江戸の身寄りを訪ねて下る途中だったという。しかし、長い間音信不通であったため、その身寄りが今はどこに住んでいるのか、よく分からないということだった。
そういう身の上なら、あてもなく江戸へ行くよりも、いっそここに足を留めてはどうだと伊平は言った。近所の人たちもそれを勧めた。娘も「そうしていただければ幸せです」と答えた。
それ以来、お糸という娘は養女でも奉公人でもなく、今のところは何ということもなしに伊平の家に入り込み、最近では商売の手伝いまでもするようになったのだという。
お糸は色白で容貌も悪くない。小さい頃から苦労してきただけに、人付き合いも上手だ。そんなわけで近所の評判もよく、伊平は「よい娘を拾い当てた」と噂されていた。
婆さんの口からそんな話を聞かされているうちに、七兵衛ら三人が奥から出てきた。
七兵衛の顔には、抑えきれない喜びの色が輝いていた。

二

近江屋七兵衛が喜ぶのも無理はなかった。
彼はこの木曽の奈良井の宿で、一度は失ったはずの「手の内の珠(たま)」を、偶然発見したのである。
七兵衛は四谷の忍町で五代続く質屋を営んでおり、女房のお此(おし)と番頭の庄右衛門のほかに、手代三人、小僧二人、女中二人、仲働き一人の計十一人という大家族で、主に近所の旗本や御家人を得意として、堅実な商売をしていた。他にも土地や貸家などを持っていて、町内でもお金持ちの一人に数えられ、何一つ不自由のない暮らしぶりでした。しかし、たった一つの不足――いや、それ以上に大きな悲しみがありました。それは、娘のお元が行方不明になってしまったことでした。

今から十一年前、寛政四年の春の終わりの夕暮れのこと。今年で七歳になる一人娘のお元が、突然姿を消してしまったのです。最初は外へ遊びに出ているのだろうと思い、誰も気に留めていませんでした。ところが、夕飯の時間になっても戻らないばかりか、近所を探しても姿が見当たりません。家の中は急に大騒ぎになりました。

七兵衛夫婦は気が狂ったようになって、手分けをして必死に探しましたが、お元の行方はどうしても分かりませんでした。この時代には、神隠しということが信じられていました。人攫いによる誘拐もしばしば行われていました。お元は色白の女の子でしたから、悪い者の手にかどわかされたのではないかという説が多かったのです。いずれにせよ、一人娘を失った七兵衛夫婦の悲しみは、言葉では言い表せないほどでした。妻のお此は、その後三ヶ月ほども心労から病に伏せってしまったほどです。

七兵衛も費用を惜しまず、できる限りの手段を尽くして娘の行方を探しましたが、飛び去った雛鳥は二度と元の籠には戻りませんでした。そうこうするうちに一年が過ぎ、二年が過ぎ、近江屋の夫婦は諦められないながらも、諦めるより他にありませんでした。それでも、いつどこから戻ってくるかもしれないという淡い期待から、近江屋ではその後も養子を迎えようとはしませんでした。

もしお元が無事であれば、今年で十八歳の春を迎えることになります。行方の知れない子供の年齢を数えては、お此は正月早々から涙をこぼしていました。七兵衛が今回の伊勢参りに出たのは、四十二歳の厄除けが目的でしたが、そのついでに伊勢から奈良、京都、大阪を見物して歩けば、もしかすると我が子に巡り会えるかもしれない。そんな儚い望みもあっての長い旅路でした。しかし、行く先々でそれらしい噂も聞けず、望みの綱もだんだんと切れかかり、あと五、六日もすれば江戸へ戻るというところまで来ていました。

そんな木曽街道で、思いがけず熊の胆(くまのい)を売る娘に出会ったのです。七歳の時に別れたきりでしたが、その幼い頃の顔立ちが面影として残っていました。年頃もまさにぴったりです。気をつけて見ると、右の耳の下には証拠となる黒子がありました。さらに念のために確かめると、左の二の腕に青い痣があるといいます。もう疑う余地はありません。この娘は我が子に違いない、と七兵衛は確信しました。

彼は喜びに涙を流しました。正直者の伊平は、思いがけない親子の再会に驚き、異論なく娘を実の親に引き渡すことになりました。七兵衛は多額の礼金を彼に渡し、別れを告げました。お糸という名は誰に付けられたのかはよく分かりませんが、娘はかつてのお元に戻り、十一年目にして再会した父と共に奈良井の宿を立ち去りました。

甥の梅次郎も手代の義助も、不思議な対面に驚きながらも、喜び勇んで一行に加わりました。江戸を出るときには男三人だった一行に、若い女一人が加わって帰ってきたのを見た時、近江屋の家はひっくり返るような大騒ぎになりました。女房も番頭も、嬉し泣きに泣きました。近江屋からは町役人にも届け出て、お元は再びこの家の娘となりました。

この話がここで無事に収まれば、筆者としてもめでたく筆を置くことができるのですが、事実はそれを許さず、私をさらに暗い方向へと引きずり込んでいくのでした。お元が無事に戻ってきたと聞き、親類たちも皆、喜んで駆けつけました。町内の人々もお祝いに訪れました。その喜ばしさと忙しさに紛れて、当座は夢のような日々を送るうちに、四月も過ぎて五月も半ばとなりました。

この頃には家の中もようやく落ち着き、毎日降り続く五月雨(さみだれ)の音も耳につくようになっていました。その五月末の夕暮れ、お元が仲働きのお国と共に近所の銭湯へ出かけている留守を狙って、お此は夫にささやきました。

「お父さん、お元さんについて、何か気がついたことはありませんか?」
「気がついたこと……? どういうことだ?」
七兵衛は少し眉をひそめました。妻の口ぶりが、何か込み入った事情があるように聞こえたからです。
「実は、お国が妙なことを言い出したのですが……。

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