初級翻訳・自来也の話 第2話

岡本 綺堂

絵入りの読み物を歌舞伎の演目にするという手法はこれが始まりであることからも、『自来也物語』がいかに流行したかを想像することができます。

そのほかにも、同じく鬼武の作で『自雷也話説』という作品があるそうですが、私はそれを読んだことがありません。おそらく自来也が当たったので、また何か書いたのでしょう。そうして、自来也をさらに「自雷也」と改めたらしいのです。

こういうわけで、中国の「我来也」が日本の「自来也」となり、さらに「自雷也」となりましたが、それがまた「児雷也」と変わったのは、美図垣笑顔(みずがきえがお)から始まったことです。

笑顔は芝の涌泉堂という本屋の主人でしたが、副業として小説も書いていました。何か一つヒット作を作ろうと考えた末に、あの鬼武の『自来也物語』からヒントを得て、「蝦蟇(がま)の妖術」「大蛇の怪異」というキャッチコピーをつけて『児雷也豪傑譚』という草双紙(絵本のような娯楽本)を、芝神明前の和泉屋から出版したところ、これがまさに大ヒットとなりました。

結局のところ鬼武の『自来也物語』を焼き直したものですが、主人公の盗賊・児雷也を美青年のような姿で描き、当時の人気作『田舎源氏』の光氏のようなキャラクターにした趣向が、ひどく人々の心をつかんだようです。その絵を描いたのは二代目豊国です。

『児雷也豪傑譚』の初編が出たのは天保十年で、作者も最初から物語の結末まで考えていたわけではないようです。それが大ヒットしたことから図に乗って、終わりもなく書き続けているうちに、第十一編を最後に嘉永二年に作者は亡くなりました。

しかも児雷也の人気は衰えないため、そのあとを柳下亭種員が書き継ぎ、さらにそのあとを二代目の種員が書くという具合で、いよいよ終わりが見えなくなり、幕末の慶応二年には第四十四編まで続くこととなりました。とにかく『田舎源氏』や『しらぬい譚』、『釈迦八相』などと並んで、江戸時代の草双紙の中では大物と言わなければなりません。

この作品がそれほど人気を得たのは、先ほど述べた豊国の挿絵が時代の好みに合っていたことと、もう一つは人気俳優の八代目団十郎が児雷也を演じたことにもよるようです。もっとも、この本の評判が良いから芝居でも上演したのでしょうが、それによってこの作品はさらに人気を高め、女性や子供たちにも愛読されたことは争いようのない事実でしょう。

その上演は嘉永五年、河原崎座の七月興行で、原作の初編から十編までを脚色したものです。外題はやはり『児雷也豪傑譚話』で、主な役割は児雷也(団十郎)、妖婦越路、傾城あやめ、女巡礼綱手(岩井粂三郎)、高砂勇美之助、大蛇丸(嵐璃寛)などでした。

この脚色をしたのは黙阿弥翁です。翁が後年、條野採菊翁に語ったところによると、河原崎座の座主・河原崎権之助という人は新しい芝居を嫌い、「何でも芝居は古いものに限る」と主張していたため、黙阿弥翁が何か新しい狂言のアイデアを提案しても、一向に取り合わなかったそうです。

これには黙阿弥翁も困り果てていましたが、あの『児雷也』の草双紙の評判が良いので、さすがの権之助も「一つやってみようか」と言い出しました。黙阿弥翁も「ここぞ」と腕を振るって脚色したところ、その狂言が大ヒットしたのです。権之助も少し考えを改めたらしく、「来年も何か草双紙を仕組んでくれ」と言い、今度は『しらぬい譚』を脚色すると、これもまた当たりました。そうして権之助もついに降参し、「なるほど、これからの芝居は新しい狂言でなければいけない」と言い出したのです。黙阿弥翁はそれに勢いを得て、続いて「小幡小平次」を書き、「忍ぶの惣太」を書き、ここに初めて狂言作者としての地位を確立したのであるという。

もちろん、黙阿弥翁のことであるから、遅かれ早かれ世に出ることに間違いはないだろうが、ここに『児雷也豪傑譚』という評判の草双紙がなかったら、あるいはその出世が三年や五年は遅れたかもしれない。

そう考えると、児雷也と黙阿弥翁、その間には一種の因縁がないとも言えないように思われる。

鬼武が最初に「我来也」を「自来也」と改めたのは、「我来也」という発音が日本人の耳に心地よい響きを与えないためであったらしい。

それでも「我来」を「自来」に改めたのはまだ良い。

さらに「自雷」と改めたのは、どういう理由なのか分からない。

ましてや、後の作者が「児雷」に改めたのは、いよいよ拙い(つたない)ことである。

しかもそれが最も広く伝わったせいで、「児雷也」というのが一般的な名前になってしまったのである。

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