初級翻訳・鼠の湯治 第2話

中谷 宇吉郎

その間は傷がかえって広がったり、少し治りかけたと思ったら止まったりと、いろいろ気ままな経過をたどるのです。いわば「治ろうか、どうしようか」と迷っているような期間があり、それを過ぎてから初めて、正規の治癒曲線に従って治っていくのです。この正規の治癒曲線は、たいていの場合、単純な指数曲線でした。

「迷いの期間」の長さはネズミや条件によって違いますし、治癒が始まってからの指数曲線の減り方を決める数値も、ネズミによって違うことが分かりました。そうした経過こそが基準となる性質であり、そこに生物の実験特有の大きなバラつきが重なるのですから、百枚もの曲線の形を完全に覚えるまでは、なかなか正体が見えてこなかったのです。

ここまで分かれば、傷の治り方を「迷いの期間」と、指数曲線の減り方を表す「治癒係数」という二つの数値で示すことができます。そうすれば、食事の影響や、薬を塗ったり手当をしたりした時の効果を、かなり正確に数値で表せるようになるのです。脂肪分が多い食事の影響は、どうやら「迷いの期間」を長くする方に働いているようでした。

「治り方が遅い」という言葉も、一般にはずいぶん曖昧に使われています。傷が完全に消えてしまうまでの期間が長いという意味よりも、傷が大きくて痛々しい「最初の期間」が長いという意味で使われることが多いようです。もしそうなら、昔からの言い伝えと、今回のネズミの実験結果はよく一致していると言えます。

さて、肝心の温泉の効き目についてですが、いろいろな温泉で、そのお湯に浸かることが治癒係数にどう影響するか分かれば、とても面白い問題になります。そこでY教授は、助手の方と二百匹ほどのネズミを連れて、近所の温泉へ出かけることになりました。

もっとも、ネズミと一緒に人間が入浴したら他のお客さんが困ってしまいますから、温泉付きの貸別荘を借りることになりました。ずいぶん羨ましくのんびりした研究に見えるかもしれませんが、実際は毎日たくさんのネズミに食事を与え、時間を決めて温泉に浸す必要があったため、決して楽な仕事ではなかったそうです。

ネズミが温泉好きだということは、すぐに分かりました。金網の籠に入れたまま温泉に入れてやるのですが、お湯の温度がちょうど良ければ、ネズミたちはひどくのんびりした顔つきで、金網につかまって首だけ出し、じっとしていたそうです。中にはそのまま居眠りをして手を離し、湯に沈みかけて慌てて駆け上がるようなおっちょこちょいもいたといいます。傷の治り方も非常に早かったそうです。もちろん、温泉の温度が高すぎるとネズミは苦しがり、そんな時は治り方も悪くなりました。

そこで、あるグループは温度をいろいろ変えて浸し、別のグループは入浴の時間や回数を変えてみるという風に、たくさんの実験が繰り返されました。こうして、最も効果的な入浴方法や条件が見つけ出されたのです。

この頃、伊豆のI温泉に傷病兵のための治療所ができ、白衣を着た兵士たちがたくさんやってきています。話によると、成績は大変良いそうで、どんどん治って帰っていくという心温まる知らせが届いています。きっと、あのY教授の研究なども、その治療にずいぶん役立っていることでしょう。鼠たちも少しばかり痛い思いをしましたが、立派に国のために役立ったというわけです。
Y教授の研究室の仕事は、これで終わりというわけではありません。
温泉が傷を治すのに効果があるということは分かったとしても、温泉に含まれるどの成分が効いているのか、あるいは温泉特有の何か特別な力があるのか、そういった点について、さらに深く調べるための実験が研究室でたくさん行われました。
その詳しい内容については大体忘れてしまいましたが、どれもなかなか面白い話でした。
(昭和十三年七月)

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