初級翻訳・雨を降らす話 第3話

中谷 宇吉郎

冷凍装置を動かしながら、上蓋をあけておきます。
すると、冷たい空気が箱の中に溜まった状態になります。
底に近い空気は零下三十度近くまで冷えますが、上部は部屋の空気に触れているので、常温に近い空気になっています。
上が暖かいので、冷蔵庫の中の空気はそのまま安定して、じっと留まっているわけです。
そんな冷たい空気の中に息を吐き込むと、息は白い湯気のようになります。
寒い冬の朝、外に立って息を吐くと白く見える、あれと全く同じ現象です。
この湯気は、零下三十度くらいまで冷えていても、過冷却の小さな水滴のままでいて、氷の粒にはなっていません。
部屋を少し暗くして、電灯の光を当ててみても、ぼんやりと白く光っているだけです。
もし氷晶であれば、結晶の面がキラキラと光るので、すぐに氷だとわかります。
ところがここで、液体空気で冷やした小さな銅の棒を糸で吊るし、それを冷蔵庫の中でブラブラと揺らしてみます。
すると突然、白い湯気の中に、キラキラと光る点が見え始めるのです。
たったそれだけのことですが、これが過冷却の小さな水滴を氷晶に変えることに成功した、最初の実験なのです。
さて、ここでの問題は、液体空気で冷やした銅の棒が何をしたのかということですが、まず第一に考えられるのは、温度の役割です。水は氷と触れ合っていない限り、零度では凍らないと言われています。では、もし氷が全くなかったら、零下百度になっても水は凍らず、過冷却(かれいきゃく)状態のままなのでしょうか?
そんなことは、どうやらありそうもありません。ある一定の温度まで下がれば、氷がなくても過冷却の水は突然、氷に変わるはずです。もしそんな温度があるのなら、それこそが本当の「水の凍結温度」と言えるでしょう。
そこで、銅の棒をいろいろな零下の温度に冷やして、それを冷蔵庫の中でブラブラと揺らしてみる実験をしました。
すると、銅の棒が零下三十九度より温かいと氷晶はできませんが、それよりほんの少しでも低温になると、いつでも氷晶ができることがわかったのです。
それならば、ドライアイスの昇華点は零下七十八度ですから、その粉をまけば、過冷却の水滴を氷晶に変えるには十分な低温のはずです。
そこで、冷蔵箱の上でドライアイスの塊をナイフで少し削り、その粉を湯気の中に落としてみると、果たしてキラキラと光り出しました。
ドライアイスは炭酸ガスの「氷」ですが、この場合は炭酸ガスの成分が効いているのか、それとも低温が効いているのか、あるいはその両方なのか。
その点を確かめる実験も行われました。
空気には、急激に膨らませると温度が下がるという性質があります。
そこで、急激な膨張によって氷晶ができるかどうかを実験しました。
といっても、難しい装置を使ったわけではありません。薄いゴム膜を親指と人差し指の爪先でひねって、南京玉くらいの小さな風船を作ります。
それをぎゅうぎゅうと絞り、ゴム膜が透明になるくらい薄くなったところで、冷蔵箱の底に近い場所へ持っていき、爪で押してパチンと潰すのです。
すると、キラキラと氷晶が見え出しました。
ゴム膜の小さな風船が破裂する時の、急激な空気の膨張で温度が下がるからですね。
ですから、ある限界以上の低温になれば、雲の粒が氷晶に変わることは間違いありません。
シェファー博士のこのような研究が発表されてから、あちこちでこの限界温度の測定が行われました。
イギリスでは、低温室の中で「ウィルソン霧函(むかん)」という装置を膨張させ、最初から小さな水滴ではなく、氷晶が出現する温度を決める実験をしました。
そして、水の凍結温度は零下三十七度付近にあることを確かめたのです。
水の氷点は零度ですが、実際に凍り始める凍結温度は零下三十七度だったのですね。
もっとも、これは空中に浮かんでいる小さな水滴の凍結温度であって、器に入れた水の過冷却限界は、今までの記録では零下二十度くらいです。
過冷却の水滴を氷晶に変えることができれば、雨雲を氷雲に変えることができるはずです。
そこでシェファー博士たちは、零度以下の低温にある過冷却の雨雲の上から、ドライアイスの粒をまいてみました。
すると、そのまいた道に沿って雨雲が氷雲に変わり、雲の色と濃さがはっきりと違ってきたのです。
ドライアイスは、粉をまくのではなく、粒をまくのが良いのです。
小砂利くらいの粒が雲の中を落ちていく間に、周囲の空気を冷やし、さらに後で説明する「結晶核」をたくさん与えるので、過冷却の雲粒を氷晶に変えていきます。
そして、ドライアイス自身は昇華して蒸発してしまいます。
雲の厚みを落ち切った時に、ちょうど昇華して消えるくらいの大きさのドライアイスの粒が理想的なのです。
このようにして雲の中に氷晶ができますが、この時、雲の粒がすべて氷晶に変わるわけではありません。
ドライアイスの粒が落ちた道に沿った雲粒だけが、氷晶に変わるのです。
水滴が氷になると、一グラムにつき八十カロリーの割合で「潜熱(せんねつ)」が出ます。
また、雲の中にドライアイスの粒で冷やされた部分と、冷やされなかった部分ができるので、大気の中に温度の複雑な変化が生まれます。
それが雲の中に細かい乱れ(擾乱)を生むので、過冷却の水滴と新しくできた氷晶とが入り混じった状態の雲になるのです。
こうなると、とても面白いことが起こります。
というのも、同じ温度、例えば零下十度であっても、過冷却した水と氷とでは「飽和蒸気圧」が違い、氷の方が低いからです。
そのため、過冷却の水滴から水蒸気が蒸発して、それが氷晶の上に凝縮します。
つまり、水滴は蒸発して消え、氷晶がその分だけ大きく育つというわけです。
その結果、たくさんの雲粒が消えて、大きな氷晶、すなわち雪ができることになります。
そうなれば地面に向かって落ちてくるので、これで雪を降らせることができるというわけです。
地表に近いところが温かい時は、この雪は溶けて、雨となって降ってきます。
雲の粒同士をくっつけるのは難しいことですが、一度雪に変えてしまえば、結果としてたくさんの雲粒をくっつけて大きな雨の粒にしたのと同じことになります。
これが現代の人工降雨術なのです。
話はとても理にかなっていますし、実際、シェファー博士たちはもう三年も前に、雨雲を氷雲に変える実験には成功していました。
ところが、それで雪や雨がどんどん降ったかというと、実はなかなか降らなかったのです。
氷晶まではうまく作れるのですが、それが雪の結晶に成長するという第二の段階が、なかなかうまくいかなかったからです。
それでごく最近までは、アメリカでもこの新しい降雨術は、あまり評判が良くなかったのです。その間にもシェファー博士たちは、ドライアイスを使う以外の方法で、氷の結晶を作るための研究を続けていました。
ドライアイスは、蒸発し切ってしまうまでの短い時間しか効果がありません。
そこで、もっと長い時間ずっと空中に浮かんでいて、過冷却状態の雲の粒にぶつかるたびに、それを氷の結晶に変えてくれるような「何か」はないものかと探し始めたのです。

過冷却の水は、ふつうに試験管の中で実験すると、零下三度から五度くらいになったところで突然凍ってしまいます。

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