お母さんには「脚気(かっけ)」という病気があったので、赤ちゃんの健康のために、お母さんのミルク(母乳)は絶対に飲ませないことに決めました。
ふっくらとしたお母さんは、おっぱいが張ってくると肩がものすごく凝って痛くなるので、生ぬるい白いミルクを自分でしぼっては、陶器の器(うつわ)にためて、そのまま捨てていました。
「ほんの少しなら飲ませても大丈夫だよ」と、お医者さんの樋口さんは言ってくれましたが、お父さんである私は「ダメだ」と反対し、お母さんもその意見に賛成しました。脚気という病気にかかっているときの母乳は、赤ちゃんの脳に悪い影響をあたえることがよくあります。一度そうなってしまったら取り返しがつかないので、将来のことを考えると、絶対に飲ませてはいけなかったのです。
「あなたたちがそこまで心配しているなら、もちろん飲ませないほうがいいですね。将来のことを考えたら、そのほうが安心です」
お医者さんの樋口さんも言いました。樋口さんは、お父さんがいつも頑固(がんこ)なことをよく知っているので、賛成してくれたのです。
「こんなにたくさんおっぱいが出るのに、あの子に飲ませてあげられないなんて……。ほんの少しなら、大丈夫なんじゃないかしら」
お母さんは、胸からおっぱいを出し、ぽと、ぽと、と柔らかい音を立てて器に落ちていく白いミルクを見つめながら、とても悔しそうに言いました。お父さんは「ダメなものはダメだ!」と厳しく叱り、看護婦さんの紹介所が手配してくれることになっている、代わりにミルクをあげる「乳母(うば)」さんが来るのをじっと待つことにしました。
紹介所は千葉にあるお店でした。そこからお店のおじさんと、乳母さんと、そのお母さんの3人が、今日か明日には東京にやってくるはずでしたが、確認の電報(メッセージ)すら届かないので、お父さんはイライラして落ち着きませんでした。
「どこの誰だかよく分からない人のミルクをあげるなんて、本当に大丈夫かしら。もしその人が病気を持っていたりしたら、牛乳で育てるよりも、もっと悪くなってしまうんじゃない?」
お母さんは心配そうに言いました。
「それなら、お医者さんにしっかり体を診てもらえばいいさ。お医者さんが『大丈夫』と言えば、問題ないんだから」
お父さんは答えました。
そうやって話している間にも、朝、昼、そして夜になると、お手伝いさんの夏(なつ)さんと、家のお手伝いをしてくれている平林(ひらばやし)くんの二人が、交代で「もらい乳(他の人からミルクを分けてもらうこと)」をしに、動坂(どうざか)という場所まで行かなければなりませんでした。
平林くんが戻ってくるたびに、お父さんはミルクを分けてくれる女の人のことが気になって、心配そうに尋ねました。
「あちらの家は、子どもが3人も4人もいて、部屋が2つしかない狭いおうちです。でも、ミルクはたくさん出るみたいですよ」
平林くんは言いました。
「こちらからミルクをもらいに行くと、嫌な顔をされたりしないかい?」
「そんなことありません。嫌な顔なんて全然しませんよ」
「でも、一日に3回も行くんだから、そのうち1回くらい、特に忙しい夕方なんかは迷惑に思っているんじゃないかな……」
お父さんの心配そうな気持ちをよく分かっている平林くんは、「そんなことはありませんよ」と言いました。そして、
「行くたびに、そのお家の人たちがみんなで『赤ちゃんは今日は元気ですか?』と心配してくれたり、『もしミルクが悪くなったら、遠慮なく捨てて、また新しいのを取りに来てくださいね』と言ってくれるんです。『飲む時間に合わせて、できるだけ新鮮なミルクをあげるようにしますから』とも言ってくれています」
と教えてくれました。それを聞いてお父さんは、まだ会ったことのないその家族を「なんて優しい人たちなんだろう」と思い、心から感謝しました。
「そうか、それはありがたいな。今度行くときは、何かお礼の品物を持っていかないと申し訳ないね」
お手伝いの夏さんも「本当にあんなに親切な人たちはいませんよ」と言いました。
届いた瓶の中の温かいミルクを、お母さんはいつも手のひらにあてて温度を確かめたり、ゴミが混ざっていないかと光にかざして透かして見たりしながら、とても嬉しそうにしていました。ミルクを消毒しながら、お母さんは言いました。
「あちらは大家族ですから、お礼には何をプレゼントしたら喜ばれるかしら」
そう言って、赤ちゃんが生まれたお祝いでもらった品物の中から、今は使わないものを「これもあげよう、あれもプレゼントしよう」と考えました。そして、また自分のおっぱいをしぼり、器にたまった濃くて白いミルクをじっとのぞき込みました。
「こんなにたくさんミルクが出るのに、うちの子に飲ませてあげられないなんて……」
そう言うと、お母さんはお手伝いの夏さんに、こっそりと、
「隠れて、少しだけ飲ませてあげたいな」
とささやきました。
「その『こっそり』が、すべての計画を台無しにしてしまうんだぞ!」
お父さんは、きびしい顔をして怒鳴るように叱りつけました。そのうち、しぼったミルクを捨てる場所がなくなってしまったので、庭のハギの木が植えてある日陰の地面に穴を掘って、そこへ捨てることにしました。
ある日の夜、玄関にお客さんがやってきました。家の者たちがみんな忙しそうにしていたので、お父さんが何気なく玄関に出てみました。すると、そこにはまだ一度も見たことがない女性が立っていました。
「あの……動坂から参りました……」
「おや、動坂からですか!」
お父さんは、すぐにいつもミルクを分けてくれる親切な女の人だと気づきました。女性はハンカチに包んだミルクの瓶を下げていて、そのすぐ後ろの格子の外には、妹さんらしき女の子が恥ずかしそうに体を小さくして立っていました。
「いつもお世話になっています! おい、動坂の人が来てくれたよ!」
お父さんが奥の部屋に向かって大きな声をかけると、お母さんも夏さんもみんな大急ぎで出てきました。
「皆さま、お忙しいのではないかと思いまして、ちょうどこちらの方に用事がありましたので、持ってまいりました」
女性はハンカチを広げて、ミルクの入った瓶を取り出しました。彼女が着ている藍色の浴衣(ゆかた)は袖がすり切れていて、履いている履物もずいぶんボロボロなのが目につきました。
「まあ、なんてご親切なんでしょう! どうぞ、お家の中へ上がってくださいな」
お母さんは、格子戸の後ろに隠れるようにしている妹さんにも「どうぞ入って入って!」と声をかけました。そして、初めて会ったその女性に、これからもミルクを分けてもらえるよう、何度も丁寧にお願いしました。
その女性の腕はたくましく健康的だったので、病気の心配など全くないことがひと目で分かりました。お父さんは心からホッと安心しました。
「毎日ミルクを届けてはいますけれど、もし途中で悪くなったりしたら大変だと思って、心配だったんですよ」
女性は言いました。
「いいえ、赤ちゃんもすっかりゴムの乳首に慣れてくれました。
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