でも、夜になると猫のことは、僕も妻もすっかり忘れてしまいました。
その猫が死んだのは、まさにその夜のことでした。
翌朝、お手伝いさんが裏の物置へ薪を取りに行ったときには、猫はもう体も硬くなって、古い竈(かまど)の上に倒れていました。
妻はわざわざその死に顔を見に行きました。
それまでの冷たい態度とは打って変わって、妻は急に騒ぎ立てました。
出入りの車屋さんに頼んで、四角い墓石を買ってきて、「何か言葉を書いてやってください」と言うのです。
僕は表に「猫の墓」と書き、裏には「この下に稲妻起る宵あらん」と書き入れました。
車屋さんが「このまま埋めてもいいんでしょうか?」と聞いてきました。
「まさか火葬にもできないだろう?」と、下女がからかうように言いました。
子どもたちも急に猫を可愛がり出しました。
墓石の左右にガラスの瓶を二つ並べて、そこに萩の花をたくさん挿しました。
お茶碗に水を汲んで、お墓の前に供えました。
花も水も、毎日取り替えられました。
三日目の夕方、四つになる女の子が――僕はそのとき書斎の窓から見ていたのですが――たった一人でお墓の前にやってきました。しばらく白木の墓標を見つめていましたが、やがて手に持っていたおもちゃのひしゃくを下ろして、猫のために供えてあったお茶碗の水をすくって飲んだのです。
それも一度だけではありません。
萩の花からこぼれ落ちた水が混じったその水は、静かな夕暮れの中で、何度も愛しい娘の小さな喉を潤しました。
猫の命日には、妻が必ず一切れの鮭と、鰹節をかけた一杯のご飯をお墓の前に供えます。
今でもその習慣を忘れたことはありません。
ただ最近では、庭まで持って出ることはせず、たいていは茶の間のタンスの上に供えるようになっています。
暖かい夢
風が高い建物にぶつかって、思い通りにまっすぐ通り抜けられないので、急に稲妻のように折れ曲がって、頭の上から斜めに歩道まで吹き下ろしてきます。
僕は歩きながら、被っていた山高帽を右手で押さえました。
前に客を待つ御者が一人います。
御者台からこの様子を眺めていたようで、僕が帽子から手を離して姿勢を正すやいなや、人差し指を立てました。
「乗らないか」という合図です。
僕は乗りませんでした。
すると御者は右手の拳を固めて、激しく自分の胸のあたりを打ち始めました。
二、三メートル離れていても、トントンと音が聞こえます。
ロンドンの御者はこうして、自分自身と自分の手を温めるのです。
僕は振り返って、ちょっとこの御者を見ました。
剥げかけた硬い帽子の下から、霜にさらされた厚い髪の毛がはみ出しています。
毛布を継ぎ合わせたような粗い茶色の外套の背中、その右肘を張り出し、肩と平行になるまで怒らせながら、トントンと胸を叩いています。
まるで、ある種の機械が動いているようです。
僕は再び歩き出しました。
道を行く人はみんな僕を追い越していきます。
女性でさえ、僕よりずっと速いのです。
腰の後ろでスカートを軽くつまみ、かかとの高い靴が折れるのではないかと思うほど激しく石畳を鳴らして急いで行きます。
よく見ると、どの顔もどの顔もせっぱつまっています。
男は正面を見つめたまま、女は脇目もふらず、ひたすら自分の目指す方へと一直線に走るだけです。
その時の口元は固く結ばれています。
眉は深く寄せられています。
鼻は険しくそびえ、顔は奥行きばかりが伸びているように見えます。
そして、足は一文字に用事のある方へ向かって運ばれていきます。
まるで、通りを歩いていることさえ耐え難く、外にいるのは我慢ならない、一刻も早く屋根の下へ身を隠さなければ一生の恥だ、とでも言わんばかりの態度です。
僕はのそのそ歩きながら、なんとなくこの都会にいづらい感じがしました。
上を見ると、大きな空はいつの時代からか仕切られてしまい、切り立った崖のようにそびえる左右の建物の間に残された細い帯のような空だけが、東から西へと長く渡っています。
その帯の色は朝から灰色でしたが、次第に鳶色(とびいろ)へと変わってきました。
建物はもちろん灰色です。
それが暖かい日の光に飽き果てたかのように、遠慮なく両側をふさいでいます。
広い土地を狭苦しい谷底の日陰にしてしまい、高い太陽が届かないように、二階の上に三階を重ね、三階の上に四階を積み上げてしまいました。
小さな人間たちは、その底の一部で、黒くなって寒そうに往来しています。
僕はその黒く動くものの中で、もっともゆっくりと動く一分子です。
谷に挟まれて出口を失った風が、この底をすくい取るように通り抜けていきます。
黒い影のような人たちは、網の目をすり抜けた雑魚(ざこ)のように四方へぱっと散っていきます。
鈍い僕も、ついにこの風に吹き散らされて、建物の中へ逃げ込みました。
長い廊下をぐるぐると回り、二つ三つと階段を上ると、バネ仕掛けの大きな戸があります。
体重をちょっと預けるやいなや、音もなく自然と体は大きなギャラリーの中へ滑り込みました。
目の下は眩しいほどに明るい。
後ろを振り返ると、戸はいつの間にか閉まっていて、いる場所は春のように暖かいのです。
僕はしばらくの間、瞳を慣らすためにパチパチと瞬きをしました。
そして、左右を見渡しました。
左右にはたくさんの人がいます。
けれども、みんな静かに落ち着いています。
そして、顔の筋肉が残らず緩んで見えます。
たくさんの人がこうして肩を並べているのに、いくら大勢いても、少しも苦になりません。
すべてが互いに互いを和ませているのです。
僕は上を見上げました。見上げると、大きなドーム状の天井がありました。その天井は、極彩色の鮮やかな模様でいっぱいで、まぶしいほどの金箔がキラキラと輝いており、見ているだけで胸が躍るようでした。
私は前を見ました。目の前には手すりがあって、そこから先は何もありません。大きな穴が開いているのです。私は手すりのそばまで歩み寄り、首を少し伸ばしてその穴の中を覗き込みました。
すると、遥か下のほうには、まるで絵に描いたような小さな人たちで埋め尽くされていました。その人数の多さと、鮮やかさといったらありません。まさに「人の海」とはこのことでしょう。白、黒、黄色、青、紫、赤……。あらゆる色が、大海原に広がる波紋のように、ぎっしりと集まって、遠くの底で五色の鱗(うろこ)を並べたみたいに、小さく、そして綺麗にうごめいていました。
そのとき、うごめいていたものたちが、パッと消えました。大きな天井から、遥か下の谷底まで、一気に暗闇に包まれたのです。さっきまで何千人も並んでいたはずなのに、闇の中に消えてしまい、誰一人として声を上げる者はいません。まるで、この深い闇によって一人残らず存在を消されてしまい、影も形もなくなってしまったかのように、静まり返っていました。
そう思った瞬間、遥か下の正面の一部が四角く切り取られたように、闇の中からぼうっと浮かび上がってきました。いつの間にか、そこだけが薄明るくなっているのです。最初は、ただ闇の濃さが違うだけかと思っていましたが、だんだんと暗闇から何かが浮かび上がってきます。
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